雑用係の失恋日記(3)



「え、陛下、いないの?」

リビングのドアの前で立ち止まった僕を、コマ子さんは不思議そうな顔をして振り返った。

「うん。わたし、毎朝牛乳飲まないと力が出ないんだけど、昨日の夜、うっかり全部飲んじゃったんだ」

……うすうす気づいていたけど。
いや、うすうすじゃない。はっきり気づいていたけど。認めたくなかっただけだけど……。
コマ子さん、昨日泊まったんだ。
一人暮らしの男の家にお泊まり……、なんて、それってつまり――。

い、いやいやいや!違う!まだそうと決まったわけではない!
そうだ、罠だ!これは誰かが僕に仕組んだ罠なんだ!
きっと、いつものように小間使いをさせていたら終電がなくなっちゃって仕方なく泊まらせたとか、コマ子さんが鍵を忘れて家に入れなくなっちゃって、見かねた陛下が泊めてあげたとか……。
うん、そうだ!可能性はいろいろあるじゃないか!
そうだそうだ!下世話な想像させようったってそうはいかないぞ!

僕はそう自分に言い聞かせながら、胸の前で小さくこぶしを握った。

「雄平くん、コーヒー飲む?」

僕の気持ちも知らずに、コマ子さんはいつもの無邪気さで僕に笑いかける。

「あ、うん」
「じゃ、ソファに座って待ってて」

言葉のままに、僕がソファに腰を下ろしかけたその瞬間、コマ子さんの身体が不自然に傾いた。

「あ、危ない!」

コマ子さんは、昔から何もないところで派手に転べる人だった。
僕は慌てて手を伸ばして、コマ子さんの腕を掴んだ。その勢いのまま、コマ子さんは僕の胸元に倒れ込み、軽くて柔らかい身体がとんと触れた。
「大丈夫?危ないよ?」なんて言いながら爽やかに微笑んだりできたらスマートで格好いいんだろうけど、女の子に対する免疫など皆無の僕は、腕の中にコマ子さんがいるという事実に一瞬で頭が沸騰して、軽いめまいを起こしてそのまま後ろへひっくり返った。
僕に寄りかかっていたコマ子さんも、当然一緒に倒れ込むことになり、ソファに頭をあずける形でひっくり返った僕の上に、コマ子さんが覆い被さる体勢になってしまった。

「び、びっくりした……。雄平くん、大丈夫?」

コマ子さんは、大きな目をさらに大きくさせながら、ほんの少しだけ身体を起こした。

「う、うん」

かろうじて出した声は、情けないほど上ずっていた。

こ、この体勢はマズい。
ただでさえ、風呂あがりのシャンプーの匂いとか、やわらかい感触とか、いろいろいろいろヤバいのに――
密着、ていうか下から見上げるとか、シャツの中が見えそうで………。
う、う、うわぁ〜〜!ちょ、ホント、ヤバいから!マズいから!
全身に熱い血が巡る。

「こ、コマ子さん!!あの」

――どいてくれ!

そう言おうとした瞬間、僕はある一点に目が釘付けになった。
襟ぐりから覗く、ほんのりピンク色にそまった白い鎖骨、のさらに下。
普通にサイズのあった服を着ていれば見えない場所。
そこに、2つ並んで付けられた、赤い鬱血痕。
それを虫さされやぶつけたアザだと勘違いできるほど、僕は子どもでもお目出度くもなかった。

キスマーク。

しかも、その2つの痕は、それぞれ濃さが異なっていた。
一つは、ついさっき付けられたかのようにくっきりと。
もう一つは、数日経って消えかかっているのかうっすらと。
それが何を示すのか、瞬時に想像してしまった僕は、一気に顔が赤く染まる。
そしてその1秒後に、昨夜、電話線を抜かれたことを思い出して、今度は一気に全身から血の気が引けた。

ちょ、ちょ、ちょっと待て!
今のこの状況は、もしかして僕が思っている以上に、非常に危険な状況なんじゃないか?
つまり、陛下とコマ子さんはそういう関係なわけで。
しかも、それは昨日今日始まった関係ではないわけで。
ていうか、ほぼ100%間違いなく昨日もそういうことをしていたわけで。
で、今日、というか、今のこの状況。陛下になったつもりで見てみると――

1.人の留守を見計らって、彼女が一人のところへ、彼女に気がある後輩(男)が押しかけてきた。
2.彼女は、いつ襲われてもおかしくない格好で出迎えた。
3.何があったのか、リビングの床に倒れ込んで抱き合っている(?)2人←今、ここ

や、や、や、や、ヤバい!
言い訳が通用しそうもない!
殺される理由しか存在しない!
こんな現場を見られたら、間違いなく今日この日が僕の命日だ!

僕は真っ青になって、慌てて身体を起こすとコマ子さんの肩に手を伸ばした。

「こ、コマ子さん!」

離れなくては!
その思いが強すぎた。
というか、押す力が強すぎた。
必要以上の力で肩を押されたコマ子さんはそのまま後ろにひっくり返った。
コマ子さんはとっさに僕の服の袖を掴み、引っ張られた僕も遅れてコマ子さんの上に倒れ込んだ。

マズい状態から抜けだそうとして、余計にマズい体勢になってしまった。

「ご、ごめん!」

叫びと同時に身体を起こした僕の目に飛び込んだのは――

寒気がするほど、身の毛がよだつほど、寿命が縮むほど………

恐いくらいに無表情の皇帝陛下の姿だった。




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