雑用係の失恋日記(4)



一体、どれくらいそうしていたのだろう。時が止まったような気がした。

「何をしている?」

予想していたよりも落ち着いたトーンの陛下の声に、僕ははっと我に返り、怒濤の速さでコマ子さんから離れると、ごんと音が鳴る勢いで床に頭をこすりつけた。

「も、申し訳ありません!」
「何しに来たんだ?」
「すみません、すみません、申し訳ありません。でも一つだけ言い訳させて頂きますと、決して、決してやましい気持ちなどなかったんです!本当にもう、さっきの体勢は完全に完璧に事故でありまして、会長の留守を狙って押しかけて、コマ子さんを押し倒そうなんてそんな大それたことを考えたわけでは決してありませんで、本当に本当に本当にたまたま偶然こんな体勢になってしまったわけで、会長を出し抜こうとかそんなおこがましいことは考えられるわけもなく、本当になんと説明すればいいのか分からないのですが、本当にこれは事故だったんです!」
「うるさい」
「ひぇ!すすすすすみません!信じてもらえないかもしれませんが本当に」
「誰も信じてないとは言っていないし、そもそも俺はさっきの状況を説明しろとは言っていない。
”何をしにここへ来たんだ?”と聞いたんだ」
「は、はい、ですからこれは偶然の事故で……って、え?」

顔を上げると、陛下は苛立った表情で僕を見下ろしていたけれど、そこに殺気は感じられなかった。あるとするなら、むしろ”呆れ”。僕は拍子抜けして、口をぽかんとあけてただただ陛下の顔を見上げ続けた。そして、おそるおそるお伺いを立てるように尋ねた。

「……ご立腹ではないのですか?」
「お前にそんな度胸がないことくらい知っている。どうせこいつが不用心にドアを開けて、不注意で転んで、無意識に誘惑してきたんだろ」

さ、さすが……見てたかのようにすべてお見通しだ。

「相手が他の男だったとしたら多少は警戒もするが、お前を相手に何かが起こるはずもない。そんなことにまでいちいち腹を立てるほど俺は小さい人間ではない」

あ、つまり、まったく男として価値のない人間というレッテルを貼られていると……。
助かったけれど、正直情けない。

「そんなことより、何をしに来た」
「え……」
「理由もなくここへは来ないだろ。昨日もしつこく電話を鳴らしていたもんな」

陛下の声のトーンが下がった気がして、僕は思わず身を引き締めた。

「さっさと用件を言え。俺はさっきのことより、むしろ昨日の電話の方に腹を立てている」

陛下は僕に近寄ると、隣できょとんとした顔で座っているコマ子さんには聞こえないように、小さな声で
「いいところで邪魔しやがって」と囁いた。

そして、真っ青になって息を止めた僕に、陛下は気味が悪いほど穏やかな顔で微笑んだ。

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それから、僕は大きな身体をできるだけ小さくしてことのあらましを説明した。
陛下は無表情で黙って聞いていたかと思うと、呆れたように大きな溜息をひとつ吐き、「ちょっと待ってろ」というと奥の部屋の方へ消えていった。
その後ろ姿を不安げに見守っていると、横で話を聞いていたコマ子さんが僕の顔をのぞきこんでニコっと微笑んだ。

「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
「あ、うん……」
「後輩のためにこんなに親身になって……雄平くんって、本当に優しいよね」

いや……押し切られて仕方なしだったんだけど……。僕の優柔不断が思いがけず好印象を与えていたらしい。
現金にも嬉しくなって、僕も知らず知らずに頬が緩む。

「おい」

ほんわかした空気が一瞬で凍った。

「は、はい!」

叫びと同時立ち上がると、陛下がフロッピーディスクをつきだしてきた。

「これでいいのだろう?」
「は、はい!ありがとうございます!」

さっきまで感じなかった殺気をわずかながらに感じるような気がするのは気のせいだろうか。

「そいつに言っておけ。”二度目はない”と」
「は、はい!」
「自分の尻を自分でぬぐえんヤツを助けてやる義理は俺にはない。本来、そいつは自分で俺に助けを求めに来るべきだった」
「はい。おっしゃるとおりです」
「今回、助けてやるのはただの気まぐれだ」
「気まぐれ……」
「お前は」

陛下はそう言って一瞬視線を僕の斜め下にうつした。そして自嘲するようにふっと笑って僕を軽く睨んだ。

「タイミングがいいんだか悪いんだか分からんヤツだな」

いや、僕は思いっきりタイミングの悪い人間だと思いますが……。
陛下の真意が分からない。
苦笑して首をかしげて見せると、陛下は苛立たしげに眉をひそめた。

「で、いつまでここにいる気だ?」

あ、なるほど!
つまり、邪魔者にさっさと出て行ってほしくて小言も最小限にお願いをきいてくれたということですか!!

「す、すみません!ただちに退出いたします!」
「え?もう帰っちゃうの?今、コーヒーいれるから待って」

すかさず飛び出すコマ子さんの空気読まない発言。
いや、嬉しいですよ?コマ子さんのいれたコーヒーを飲めるのならば多少の痛みくらいは我慢しますよ?
でも、命を捨てる覚悟までも持てません!

僕はへらっと情けない笑みを浮かべると引け腰であとすざりした。

「い、いや、あんまり長居したらお邪魔だと思うんで、僕はこの辺で」
「そう?」

うかがうように陛下を見上げるコマ子さん。
陛下はそれに答えようとはしなかったけれど、僕を射すくめる目は、はっきり「邪魔だ」と語っていた。

「いや、このあと用事もあるんで、ほんと、お構いなく」
「そっか……」

心持ちしゅんとした表情を見せたコマ子さんは、すぐさま何を思いついたのか晴れやかな笑顔を僕に向けた。

「じゃ、そこまで送っていくね」
「あ、いや、そんな、別に」
「遠慮しないで」

陛下の顔色を横目でちらちら気にしながら、僕はじわりじわりとあとずさる。
構わず僕に詰め寄ろうとしたコマ子さんは一歩踏み出したところでまたもや突然つまずいて身体が前に傾いた。

「あ」

――危ない!

と思った瞬間、コマ子さんの身体は陛下の腕に引き寄せられ、ぴったりと胸元におさまった。

「……お前は」

呆れた声で見下ろす陛下。

「……ごめんなさい」

陛下の胸元に両手をあててそっと見上げるコマ子さん。
大事なひな鳥を守るかのように、優しく包み込むように抱きしめる陛下。

僕がいるにも関わらず、誰も入り込めない2人だけの世界を繰り広げている。

「どうしてお前は、こう、なんにもないところですっ転べるんだ?そう言えば高校で再会したときも……」
「きゃーーーー!先輩!もうあのことは忘れて下さい!」
「忘れて欲しければ大人しくしていろ」

えーと……忘れ去られているのは僕の存在ですよね?
陛下がコマ子さんを見つめる目が、なんだかもう気味が悪いほど優しくて、思わず鳥肌が立ちそうになる。
そんな僕の気配に気づいたのか、陛下がちらりとこちらを見た。
その目は……たとえようがないほど恐かった。
ひぃ!と縮み上がって、僕は「失礼しましたーーー!」と絶叫しながらリビングから飛び出した。
そのまま勢いよくドアを開けた僕は、うっかり靴をはくのを忘れていたことを気づいた。
慌ててドアノブを掴んでいた手を離すと、バタンと大きな音をたててドアが閉まった。
僕の靴が間抜けに鎮座する玄関が、しーんと静まりかえった。
おそるおそる後ろを振り返ったけれど、陛下が顔をのぞかせる気配はなかった。

僕はほっと息を吐いて、靴に手を伸ばしてかがみ込んだ。その時――

「お前はバカか!?」

鋭い声がリビングから聞こえて、僕はびくっと肩をゆらした。

「……バカですけど?」

今度はコマ子さんの不思議そうな声が聞こえてきた。

「なぜ俺が怒っているか分かっていないだろ?」
「……転んだからですか?」
「それも含めて、お前は不用心すぎる!」
「す、すみません!」
「なぜ、あいつを家に上げた」
「え?なんでって……」
「ここは俺の家だ。家主の留守中に勝手に人を上げるヤツがいるか!」
「す、すみません!インターホンを見たら雄平くんだったから、つい」
「知り合いだったら誰でも開けるのか?お前は7匹の子ヤギか?知り合いが強盗や強姦だったらどうするつもりなんだ?」
「そんな!雄平くんが強盗や強姦なわけないじゃないですか!」
「絶対に間違いを起こさない人間などこの世にいない!そもそも、その格好はなんだ!」
「え?先輩のシャツですけど」
「以前そんな格好をしていたせいで、どんな目にあったかもう忘れたのか?お前は常識だけでなく学習能力まで欠如してるのか?!あんまり男を甘く見るんじゃない」
「ちょっと待って下さい!わたしだってちゃんと失敗から学んでいるんですよ!見て下さい!」
「バカか!めくるんじゃない」
「ほら、ちゃんと下にスパッツ履いてるんですよ!」
「……もういい」
「わたしだってちゃんと気を付けて……ちょ、先輩!な、何してるんですか?」
「口で言っても無駄だとわかった」
「だ、だからって、なんで脱がそうとするんですか!」
「頭で分からんのなら身体に教え込むしかないだろう」
「や、待って、ダメ……もう無理です!今日は無理!」
「無理じゃない」
「だって、昨日あんなに――」
「途中でかかってきた電話を気にして、全然集中してなかっただろ。俺は不満だ」
「な!で、でもその分いつもよりしつこかったじゃないですか!」
「そうだったか?」
「あ……やだ、そこ、ダメ」
「もう黙れ」
「……んっ」

コマ子さんの甘い吐息とともに、衣づれの音が聞こえてきた瞬間、フリーズしていた脳が活動を再開し、僕の全身は真っ赤に染まった。
これ以上聞いていることができず、僕は靴を両手で掴むと「失礼しましたーー」と絶叫して部屋から飛び出した。
階段をかけおり、走って走って駅にたどり着いてはじめて、僕は自分のおかした失態に気付いた。

「失礼しました」

あの一言。

なぜ、わざわざ盗み聞くしていたことを宣言するような真似をしてしまったのだろう。

これからしばらく、陛下はもちろん、コマ子さんの顔すら見られそうにない。

僕はがっくり肩をおろして、本日、唯一の収穫品――フロッピーディスクを届けに、高校行きのバス停へ足を踏み出した。


 



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