8.コマ子さん、 捕まる(中)
そのまま乱暴にベッドに落とされ――るかと思ったら、なんだか壊れ物でも扱うかのようにそっと下ろされた。
寝室の電気は消えていて、カーテンがあいた窓からはわずかな月明かりが差し込んでいたけれど、逆光になっていて先輩の表情は見えなかった。
それでもただならぬ緊張感が漂っていることは肌で感じられ、わたしはぐっとつばを飲み込んだ。
先輩は静かに両手を伸ばすとわたしの身体を腕の中に閉じ込めしっかりと抱きしめた。
そしてそのままゆっくり押し倒されて、わたしたちは2人そろってベッドに沈み込んだ。
先輩が何をしようとしているのか――もう分からないわたしではない。
――本気で陛下と別れたいなら、もう二度と身体だけは許しちゃダメよ。「最後に1回だけ抱かせろ」とかほざきやがるかもしれないけど、断固拒否しなさい。
分かってるよ、亜弓ちゃん。
もう1回抱かれたら、やっぱり離れたくなくなってしまうもん。
抵抗しようと身体を押そうとしたけど、しっかりとホールドされたわたしの身体は手首を動かすのがやっとで身動き一つとれそうにない。
「先輩……ダメです」
先輩は答えない。
「先輩、……離して」
やっぱり先輩は答えてくれない。
「先輩、お願い……」
答えの代わりに先輩はわたしをぎゅっと抱きしめた。
きつい拘束のはずなのに、不思議と圧迫感や重量感を感じない。
こんなときでも、先輩は自分の身体をコントロールしてわたしを押しつぶさないように気を遣っている。
なんでこんなに優しいの……?
にじむ涙をぬぐえず、無様な顔をさらしてもう一度最後のお願いをした。
「消えて」
「聞こえない」
わたしはたまらずカっとなった。
「なんでですか!?この言葉を言ったら消えてくれるって言ったじゃないですか!この言葉だけが先輩をとめられる言葉だって教えてくれたじゃないですか!」
「聞こえていないものを聞くことはできない」
「じゃあ、ちゃんと聞いて下さい!」
「聞こえない」
「聞こえるまで何度だって言います!消えて、消えて、消えて、消えて!」
「もうやめろ!聞きたくない!!」
わたしはぴたりと口をつぐんだ。
「なんでだ……」
その声は、いつも自信に満ちあふれ冷静沈着な先輩からは想像もできないほど、頼りなさげで途方に暮れたように響いた。
「なんで、そこまでかたくなに嘘をつくんだ」
「嘘なんて……」
「ついてる」
「ついてません」
先輩は少しだけ身体を起こして、額が触れ合うほど近くに顔を寄せてきた。
「何年一緒にいると思っているんだ。何年そばで見てきたと思っているんだ。それを見抜けない俺だとでも思っているのか」
「……この3年間、常に真実を語ってきたわけではありません」
「あくまで嘘はついてない、と?」
「はい」
先輩は背中に回していた腕をはずすと、両手でわたしの頬を包み込んだ。
「だったらなんでそんな顔をしているんだ?」
そんなって、どんな?
まばたきをすると涙が一つぽろっと流れた。
「断末魔の苦しみを味わっているみたいに、痛くて痛くてたまらない、苦しくて苦しくてたまらない――そんな顔をしている」
「……っ」
「お前の心が”助けて”と叫んでる」
「……っう」
「お前の泣き顔は嫌いじゃない。でも、辛そうな顔は好きじゃない」
「……うぅ」
「そんな顔をして本心を語っているなどと信じられるわけがない」
「うー……」
もう嗚咽しか出てこない。
「コマ……」
先輩の指がわたしの目元に触れる。
「ちゃんと聞くから。何を言われてもちゃんと受けとめるから。だから言え。何があった?」
「……い、言ったら、先輩、困らせる」
「困らない」
「嫌いに、なるかも、しれな…い、もん」
「嫌いになんかならない」
「そんなの分からない!」
「分かる!分かるから………」
先輩は力無く「コマ」とつぶやくと、わたしの額に自分の額をこつんとあてて目を閉じた。
「頼むから、本当のことを言ってくれ」
胸が張り裂けそうなほど、切ない声だった。
「嘘をつかれると……辛い」
それは多分、はじめて先輩が漏らした弱音――そして本音だった。
その言葉を聞いたとき、わたしはこれ以上逃げられないと悟った。
「子供ができました」
先輩がさっと目を開いた。
「お腹に先輩の子供がいるんです」
+
言ってしまってから、急に怖くなってわたしは目を閉じた。
先輩がどんな表情をしているのか――知りたくなかった。
目を閉じると、途端に視力以外の神経が過敏になる。
一瞬小さく息を吸う音が聞こえたかと思うと、先輩がかすかに何かつぶやいた。小さすぎて何を言ってるのかはっきり聞き取れなかったけど、頭の音が「や」だったのだけは分かった。
……「やだ」だったら、どうしよう。
胸がずきんと痛んだ。
その答えを裏付けるかのように、先輩はわたしの体からさっと離れてしまった。
ベッドのきしみから、先輩が立ち上がったのが分かった。
やっぱり、怒ったんだ。呆れたんだ。困ったんだ。嫌気がさしたんだ。面倒くさくなったんだ。嫌いに――。
涙が滝のように流れてきて、何かにすがりたくて仕方なくなって、わたしは枕につっぷしようとした。
「おい」
突然腕を掴まれて、わたしはベッドの上にぺたりと座り込む形になった。
そして目の前にぺらっとした白い紙を突きつけられた。
「書いておけ」
「え?なんですか、これ?」
「あぁ……暗くて見えないか」
先輩はそう言って電気をぱちりとつけた。
突然視界が明るくなってまぶしさに目をしばたかせた。
しばらくまばたきを繰り返して、ようやく慣れてきた目にうつった文字に、わたしは言葉を失った。
「な……」
「朝一で出しにいく」
「ま、待って下さい!なんですか、これ!!」
わたしは腕を目一杯伸ばすと、ベッドサイドに中腰で立っていた先輩に”それ”を突き返した。
「何、って……それくらいの漢字はお前でも読めるだろ」
「読めますよ!当たり前じゃないですか!わたしを何歳だと思ってるんですか!」
「18歳だろ。誕生日はクリスマス」
先輩、わたしの誕生日覚えててくれたんだ………じゃなくて!
「この紙、”婚姻届”って書いてあるんですけど!」
「そうだな」
「し、しかも、もうほとんどの欄が埋まってるんですけど!」
「あとはお前が書くだけだ」
「ていうか、なんでわたしの両親のサインまであるんですか!!?」
「お前はまだ未成年だから親の同意が必要だろ」
「そうじゃなくて、いつのまに!」
「この前、”もうすぐ結婚するからサインしてくれ”と頼みに行ったら、俺が前科持ちでないことだけ確認して、ためらうことなくサインしてくれたぞ。随分肝の据わったご両親だな」
何やってんのよ、お父さーん!お母さーん!!
て、ちょちょちょ、ちょっと待って!今聞き捨てならない台詞が!
「先輩?なんですか、その”もうすぐ結婚するから”って!どういうことですか!?なんでそんなことになってるんですか?」
「どうして?子供ができたら結婚するだろう」
まってまってまって!頭が混乱してきた。どういうこと?
だって、わたしの妊娠はわたしですら今日気づいたっていうのに、なんで先輩がすでに知ってたみたいな……?
混乱して目が回りそうになっているわたしを見て、先輩はくすりと笑みを漏らすとベッドに浅く腰掛けた。
「どうやらお前は、今日やっと自分の妊娠に気づいたみたいだが、俺は2週間ほど前から怪しいと思っていた」
…………え?
きっとわたしは、とんでもなくまぬけな顔をしていたんだろう。
先輩はおかしくておかしくて仕方がない様子で笑いを噛み締めようと口元に手をやった。
「あのな。この2ヶ月間、俺は毎週欠かさずお前を抱いてきた。時には平日も抱いてたから週に2,3回のペースか?
その間、お前が生理を理由に俺を拒んだのは、初めて抱いた日の3日後だけ。そのあとは1回も拒んでない。本来なら4月の半ばに来てるはずが、5月の半ばになっても来ている様子はない。どう考えてもおかしいだろ。おまけに突然今まで好きじゃなかったグレープフルーツや酢の物が美味しいと言い出す。なんだかやけに眠そうにしている。よっぽど鈍いヤツでなけりゃ薄々気づいて当然だろ」
余裕綽々と語る先輩に、疑問がいっぱい押し寄せる。
「な、なんで……なんでそんな冷静でいられるんですか!?普通、もっと焦るとか、吃驚するとか、するんじゃないんですか?」
「するわけないだろ。遅かれ早かれできると思ってたんだから。思ったより早かったな、とは思ったがな」
「は、早かっ」
もう息をのむしかなかった。
「どういうことですか!」
「避妊もしないであんだけやってれば、いつかはできるだろ」
またもやとんでもない問題発言!
「し、してなかったんですか!?」
「気づいてなかったのか?中で出されたかどうかくらい、自分で分かるだろ」
「し、知らないですよ!あれが子供を作る行為だってことすら、今日亜弓ちゃんに教えてもらって初めて知ったんですから」
「…………まさかと思っていたが、そこまで無知だったのか?」
先輩の呆れた口調に、わたしの頭は考えることを放棄した。
「……なんでそんなことしたんですかぁ……?」
力無く訴えた言葉に、先輩はにやりと微笑んで
「さあな」とはぐらかした。
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