8.コマ子さん、 捕まる(前)


これほど緊張したのは人生初ではないだろうか。
先輩の家の前、インターホンに指を伸ばした状態で、もうかれこれ10分ほど固まっていた。
ここでこうしていたって仕方がない。とりあえず一歩踏み出さなくては。
それは分かっているんだけど、やっぱり恐くて、逃げ出したくて、でも逃げるわけにはいかなくて――。
じわっと涙がにじんできた。
最近絶対涙腺が弱ってる。前はこんなにすぐ泣く子じゃなかったのに。
わたしは一度落ち着こうと、指を下ろしかけた。その瞬間――。

「お嬢ちゃん?何してるの?」
「うひゃぁりゃぁ!!」

ピンポーン

何語?という驚きの声を上げると同時に、勢いでチャイムを鳴らしてしまった。

「……ごめんなさい。お嬢ちゃん。驚かせちゃったかしら?」

声をかけてきた気のよさそうな30代くらいの女の人は申し訳なさそうに眉を下げた。

「あ、いえ……」
『……コマ?』
「うゎぁ!はい!」

またまた飛び上がりそうな声を出してドアに向き直った。
そうだった。このインターホン、カメラがついてるんだった。

『どうした?』
「あ、あの、その」
『……まぁいい。今開ける』
「あ……」

うぅ、まだ心の準備が出来てないのに……。
背後でかつんかつんという音がして振り返ると、さっきの女の人が微笑ましそうな顔をして去っていくところだった。

がちゃ

鍵が開く音がして、中から先輩の涼しげな顔が覗いた。

「どうした?忘れ物か?」

あ……そうだった。そう言えば、今日、朝までこの部屋にいたんだった。
もう遠い昔のような気がする……。
わたしは首を横に振るとちょっと俯いて、それから意を決して顔を上げた。

「入ってもいいですか?」
「ん?あぁ……」

先輩は一瞬不思議そうな表情を見せるとドアを大きく開いた。

 +

「忘れ物じゃないなら、どうしたんだ?お前の方からうちに来るなんて珍しいじゃないか」

先輩は冷蔵庫を開けるとアイスコーヒーに牛乳をたっぷりいれ、カフェオレの状態にしてわたしの前に置いた。

「……先輩に話さないといけないことがあるんです」
「なんだ?」

先輩は自分の分のアイスコーヒーを片手に、わたしの座っていたソファの横に腰を下ろした。
わたしは膝の上で拳をぎゅっと握るとゆっくり深呼吸をした。

「わたし、先輩にお別れを言いに来ました」
「は?」

苛立った声に思わずひるみそうになるのをぐっとこらえた。

「きゅ、急に家族で引っ越すことになったんです。だから、もう先輩とは会えません。突然のことで、本当にすみません。今までありがとうございました!」
「どこへ?」

下げた頭に冷たい声が突き刺さる。

「ふ、富良野です」
「大学は?」
「や、やめます」
「ほぅ……」

家族が富良野に引っ越すのは本当。
ただし、引っ越すのは楽人兄とそのお嫁さんだけ。楽人兄は結局教師の再就職口が見つからず、母方のおじいちゃんが富良野でやってるタマネギ農家を継ぐことになった。
大学も、やめはしないけど、とりあえず子供を産むまでは休学しようと思っている。
だから、嘘はあんまりついてない。嘘をつくとわたしは顔に出るから、なるべく嘘はつかないようにしろと亜弓ちゃんに忠告された。
でも、ほ、本当にこんな言い訳で先輩は納得するんだろうか……?

先輩はローテーブルにコーヒーの入ったグラスをことんと置いた。

「もう少しマシな嘘はつけないのか?」

まったく納得してませんーーーーー!

――何を言われても、シラを切り通しなさい。

亜弓ちゃんの厳しいお言葉が脳裏に蘇った。

「う、嘘じゃないです」

わたしの言葉に、先輩は手を伸ばすと無理矢理自分の方を向けさせた。

「俺の目を見て言え」

わたしは泣きそうになりながら、それでもぎゅっと唇を噛みしめ、「嘘じゃないです」と言い切った。
先輩は顔をしかめると、困ったように髪をくしゃっとかき上げた。
そして、ふぅと息を吐くとわたしの身体をさっと両手で持ち上げたかと思うと、自分の膝の上に乗せて腰に手を回した。身体が小さいわたしはちょうど先輩と同じ位置に顔がきて、向き合った状態にされてしまった。

「何があった」
「……何もないです」
「何もなきゃいきなりそんなことを言い出さないだろ。今朝までは普通だったんだから」
「…………何も、ないです!」
「言え。今日の昼間、何があった」
「……だから、何もないです!!」
「言わなきゃ無理矢理言わすぞ!」

言うが早いか、先輩は左手でわたしの右手をおさえると、右手をさっと背中から服の中にすべりこませた。

「やっ!」
「その言葉はきかない、と前にも言った」

先輩の舌がわたしの首筋を伝っていって、鎖骨のあたりにきつく吸い付く。背中をなぞっていた指はブラのホックを一瞬ではずしてしまった。

「まって、先輩、ダメ……!」
「きかない、と言ってるだろ」

先輩の大きな手が背中からゆっくりと前の方へ移動していく。
いつもだったらここで諦めてギブアップをしてしまう。
でも、今日は先輩の言いなりになるわけにはいかない。

わたしは必死で抵抗を試みたけど、先輩は焦らすようにじわじわとわたしを追い詰めて、どんな抵抗の声も「きかない」の一言で無視されてしまう。

――何を言ってもきかないときは、あんたには『魔法の言葉』があるんでしょ。

亜弓ちゃんに言われた『最終手段』。本当はこれだけは使いたくなかった。
でも、もうこれしか方法は残されてないみたいだ。

わたしは一瞬唇をぎゅっと噛みしめた。そして、先輩の耳に顔をよせると小さな、でもはっきりした声で囁いた。

「消えて下さい」

 +

その瞬間、先輩の動きが止まった。
世界が、時を止めたかのように感じた。

終わった。

先輩とともに過ごした3年と2ヶ月弱が、今、この瞬間終わりを告げた。
先輩は約束を守る人だ。嘘は絶対につかない人だ。やると言ったことは絶対やる人だ。
だから先輩は今日からわたしの前から消える。わたしの人生から消える。
悲しい。どうしようもなく悲しい。もう今にも泣きそうだ。
でもこれで終われる。
悲しいけれど、少しだけほっとした。

引きはがそうと先輩の胸元に手をやった。
でも、先輩の身体はびしっと固まっていてびくともしない。

「先輩?」

耳元でそっと問いかけると、突然肩を強く掴まれて無理矢理視線を合わせられた。

「何があった?」
「え?」
「何度も言わせるな、何があったんだ?」
「……だから何もないって」
「何もないわけがないだろう!」

先輩はどうしてしまったんだろう。
先輩の顔は、今まで見たことがないくらい焦っていて必死そうで。
わたしは力なく首を振った。
このままじゃ堂々巡りだ。

「先輩。約束です。消えて下さい」

もうこれ以上、辛い思いをさせないでほしい。楽にさせてほしい。
そんな思いをこめて、もう一度、今度はしっかりした声でそう告げた。

その瞬間、先輩の顔から表情が消えた。

「……聞こえない」

先輩がぼそっと呟いた。

「え?」

聞き返すと、先輩はもう一度、強い口調で「聞こえない」と断言した。

え、ええと……聞こえないって?
そんなに小さな声だったかな?

「消えて下さい」
「聞こえない」

大きさの問題じゃなくて、滑舌の問題なのかな?

「き・え・て・く・だ・さ・い」
「聞こえない」

こ、これでもダメなの?
あ、そ、そうか!敬語だからダメなのか!!先輩に乱暴な口調は使いたくなかったけど、背に腹は替えられないというヤツか!

「き、消えろ!」
「聞こえない、と言ってるだろ!!」

先輩は突然さっと立ち上がった。
膝に乗っていたわたしは普通なら後ろにひっくり返るところだけど、素早い動きで腰を掴まれ、そのまままるで荷袋のようにひょいと持ち上げられてわたしは慌てて先輩の頭にしがみついた。

「え?え?」

何が起こったのか理解できずに狼狽えるわたしを無視して先輩はずんずんとリビングを横切り寝室へ入っていった。



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