7.コマ子さん、 気づく (後)


亜弓ちゃんの気配が変わった。
おそるおそる顔を上げるとひどく心配そうな顔でわたしを見つめていた。

「大丈夫?何かストレスでもたまってるんじゃないの?それとも何か別の病気とか……」
「え?……いや、だからもしかしてわたしも妊娠」
「あ、それはないから大丈夫よ」

即答で断言された。

「え?なんで?」
「なんでって……やることやってなきゃ妊娠はしないわよ」
「やることって?」

亜弓ちゃんは「うーん」と言って少しだけ考えるポーズをとったけど、すぐに思い直した様子で自分を納得させるかのようにうなずいてみせた。

「そうね。刈谷ももう大学生なわけだし、いつまでもお子様のままじゃ可哀想よね。分かった。教えてあげる」

そう言って亜弓ちゃんは紙とペンを持ってくると、図示しながら丁寧に「やること」について説明してくれた。
亜弓ちゃんの説明はとても分かりやすく、それゆえに……わたしは途中から顔から血の気が引いていくのを感じた。

一通り説明をし終わった亜弓ちゃんは、下を向いて食い入るように紙を見つめているわたしの顔をのぞき込んだ。そして目が合うとぎょっとした顔で慌てて両手を伸ばしてわたしの両頬をつかんだ。

「刈谷!真っ青じゃない!どうしたの?やっぱり刺激が強すぎた?ごめんね。もっとゆっくり教えればよかったかな。本当にごめんね?怖がらせちゃった?」

わたしは力なく首を横に振った。

「亜弓ちゃん……わたし、やってる」
「え?」
「どうしよう。亜弓ちゃん、わたしやってるよ、これ、何回も!やっぱり妊娠してるかも!」

涙がにじんだわたしの目に亜弓ちゃんの表情の変化がまるでスローモーションのようにうつった。
驚愕。呆然。憤慨。
そして最終的に、般若のような表情に落ち着いた。

「答えは分かってるけど一応聞く。相手は誰?」
「え………み、御門先輩」
「うん」

亜弓ちゃんは頬に当てていた手をすっと放すと気味が悪いほど穏やかに微笑んだ。そして、

「殺す」

ドスのきいた声で吐き捨てた。

「あ、亜弓ちゃん?」

不安で声を上げたわたしに向かって、亜弓ちゃんはキッと睨み付けた。

「刈谷も刈谷よ!なんでそんな大事なことを黙ってたのよ!」
「ご、ごめん。でも、わたし、これがそんな大事なことだと思わなくって……」
「はぁ!?だいたい、さっき聞いたわよね?先輩とつきあってるの?って!そのときどうして正直に付き合ってるって言わなかったのよ!そりゃ、確かにあたしはあんたと陛下のことは反対してたわよ?でも、あんたが幸せならそれでいいの。陛下がちゃんとあんたと付き合うって言うなら許す覚悟はあったの。出来たらあいつだけはやめてほしかったけど、あんたがそれでいいならわたしだっていいと思ってたのよ!あたしはそんなに信用がなかったわけ?そんなに心が狭い人間だと思われてたわけ?付き合ってることを隠したり、嘘つかれたりするくらいなら、いくらでも祝福するわよ!あたしはあんたの笑顔が見れればそれでいいの!あんたの幸せがあたしの幸せなの!それくらい分かれ馬鹿!!」

クールな亜弓ちゃんが涙を流して叫ぶ姿に、わたしは胸が締め付けられた。
亜弓ちゃんの言葉はいろんな意味でわたしの心を容赦なくえぐった。

「だって……」

わたしの目からぼろりと大粒の涙がこぼれた。

「だって、付き合ってないもん!先輩はわたしのこと抱くけど、でも付き合ってるわけじゃないもん!他の人と一緒だもん!
ねえ、亜弓ちゃん。これってやっぱり、本当は恋人同士でしかしちゃいけないことなの?友達とか、先輩後輩の関係じゃ、しちゃいけないことだったの?」

身を乗り出してすがりつくわたしに、亜弓ちゃんは顔色をなくした。
しばらく何かを言おうと唇をふるふると震わせていたけど、あまりのことに言葉にすることができないみたいだ。
ようやく震えがおさまった亜弓ちゃんは、無表情のまますっくと立ち上がった。

「よし。とりあえず、殺す」
「え……?」
「うちで一番切れ味のいい包丁はどれだったかしら」
「亜弓ちゃん?」
「あぁ、ダメだ。包丁じゃ返り血を浴びちゃうわね。じゃあ絞殺?でも、あれって失禁とか涎とかで汚いってきくわよね」
「何言ってるの?」
「やっぱり薬かしら。たしかサークルに医学部の男がいたわよね。そいつをたらし込んで睡眠薬を大量に……」
「亜弓ちゃん!!落ち着いて!!」

わたしの叫びに、亜弓ちゃんはさらに大きな声で叫び返した。

「これが落ち着いていられるかってのよ!ふざけんじゃないわよあの男!刈谷が何も知らないのをいいことにセフレ扱いにしてたってことでしょ!!?」
「せ、セフレ?」
「セックスフレンド。ヤリ友。やるためだけの相手よ。愛情なしの割り切った関係。合意のもとならあの男の交友関係にあれこれ口出す気はないけど、刈谷が関わってるなら話しは別よ。何の説明もなしに刈谷をそんな相手にするなんて100回殺しても許せないわ」
「やっぱり、それって軽蔑されるような関係なの?」
「とても誉められるような関係ではないわよ。当たり前でしょ。一歩間違えれば……というより、本来は子供を作るための行為なの。子供ができてもいいって思えるくらい好きな相手とじゃなきゃ絶対やったらダメ。当然でしょ」

怒る亜弓ちゃんに、わたしは自分の浅はかさを呪いたくなってきた。

「だいたい……詳しくは知らなくても子供の作り方くらい保健体育の授業で習ったでしょ」
「習ったけど……あれってなんか学術的すぎてイメージ沸かなかくてつまんなかったんだもん」
「あんた、興味ない授業ははなから聞いてないものね」
「うん。テストも前日に教科書丸暗記だったし」
「短期記憶力だけは驚異的にいいからね。ただ短期に覚えた記憶は3日以上持続しないってのが欠点だけど」
「うん。保体の内容はテスト終わった瞬間に抹消されてる」

亜弓ちゃんは「はぁ」と溜息をつくとすとんと腰を落とした。

「亜弓ちゃん?」
「少し落ち着いた。ごめん。刈谷の方が混乱しているはずなのに、あたしが取り乱しちゃって」
「ううん。亜弓ちゃんが怒ってくれたから、わたしもちょっと冷静になれたし」

わたしと亜弓ちゃんは顔を見合わせて力なく笑った。

「とりあえず……まず間違いないだろうけど、万が一ってこともあるし、一応調べてみようか。今、Aが使わなかった検査薬、あたし持ってるから」

 +

目の前につきつけられた「陽性」の証を、わたしと亜弓ちゃんは無言で見つめた。
……どうしたらいいんだろう。
時計の音だけが響く部屋で、先に口を開いたのは亜弓ちゃんだった。

「て言うか、普通、1ヶ月も来なかったら不安にならない?」
「……そういうこともあるのかな、って」
「そういうこともって……。眠かったりだるかったりは?」
「……ここ数週間。ただ疲れてるのかと思ってた」
「そう言えば、グレープフルーツ。無性に食べたくなったのっていつ?」
「……1ヶ月くらい前かな?」
「……気怠さ、眠気、味覚の変化。思いっきり妊娠初期症状じゃない」

そ、そうなんだ!知らなかった……。
感心していると亜弓ちゃんは諦めたように溜息をついた。

「とりあえず、陛下のとこ行って、一度ちゃんと話して来なさい」
「え!?」

驚きの声を上げたわたしに亜弓ちゃんは怪訝そうな顔をする。

「何よその反応」
「……先輩に、言わないとダメ?」
「はぁ〜?ダメに決まってるでしょ、何言ってんのよ!」

すっごい恐い顔で凄まれてわたしはうっと身を引いた。

「だ、だって……恐い!」
「何が」
「先輩に嫌われたくないもん」
「嫌われたくないって、あんた……」
「だって、重いんでしょ?そういう女って。さっき、亜弓ちゃん言ってたじゃない。サークルの男の人がそう言ったって」
「そうかもしれないけど、言わないでどうするのよ」
「……一人で産む」
「馬鹿!何にも知らない18歳の学生のあんたがどうやって産んで育てていくってのよ。真面目に考えなさい!」
「真面目も不真面目もないもん!わたしが勝手に妊娠しちゃったんだから、自分で責任とるもん!」
「勝手にって……何言ってんのよ。妊娠は一人じゃできないのよ。相手がいるからするんでしょうが。確かにあんたにも責任はある。でも同じように陛下にも責任はある。大体、あの男が避妊に失敗するなんて……
ちゃんと避妊はしてたんでしょ?」
「……それってどうやるの?」
「どうやるのって……」

一瞬絶句した亜弓ちゃんは、呆れたように溜息をはくと再びペンを手にして紙に何かを書き付けた。

「こういうの。陛下は使ってなかった?」
「……使うって、どうやって?」
「あーーー、もう!だから、これをこれにこうするのよ!」

亜弓ちゃんはさらに紙にささっと何かを描いて説明を書き加えた。
わたしはそれをまじまじと見つめてしばらく考えてみたけど、よく分からなくて首をかしげるしかなかった。

「……ごめん。いつもされるがままって感じだし、してるときは先輩の顔しか見てないから分からない」

「あーーーー、もーーーーー!誰よ、この子をこんなぽやぽやのほやほやに育てたのは!!」

突然頭を掻きむしりながら叫び声をあげる亜弓ちゃんに思わずびくっと身体をひくつかせた。

「え、えっと……」
「分かってるわよ!あたしよ!あたしのせいよ!あたしがコマ子をこんな子に育てちゃったのよ!自業自得よ!くっそー!こんなことなら教育に悪いからって恋愛小説や恋愛漫画を徹底的に排除してくるんじゃなかった!」
「え?そうだったの?」
「あんた、もしそのお腹の子が女の子だったら子供の頃から少女漫画くらい読ませなさい。将来後悔するわ!」
「う、うん。分かった、そうする」

勢いにおされて、なんだかよく分からないけどとりあえず請け負った。

「まったく……陛下もよくこんな無知で世間知らずなお子様に手を出す気になったわね。他にいくらでもいるだろうに。気が咎めなかったのかしら。人間性を疑うわ。あの非人間め!」
「そ、そんな……先輩のことひどく言わないで」
「ひどく言われて当然でしょ!?どうせあれでしょ、終わった後は冷たく部屋から出てったりするんでしょ?」
「そんな!」

わたしは首をぶんぶんと大きく横に振った。

「全然違うよ!いつも終わった後は優しくわたしの身体のこと気遣ってくれるよ。何度も優しく身体をなでて、頬とかおでことかまぶたとかにキスしてくれて、汚れちゃった身体も綺麗に拭いてくれて……」
「ちょちょちょ、待て!」

亜弓ちゃんが慌てた様子で声を遮った。

「ちょーと整理させてよ?今すっごい嫌な予感がしてるわよ?
……えっと、そもそもあんたたち、どういうきっかけでそういう関係になったの?そこんとこ詳しく聞かせてくれない?どういう経過でどういう風にどんな手順でそうなって、今現在どういう感じなの?どんなセックスしてんの?
出来るだけ具体的に、詳しく、詳細に!」
「えっ?ええ?」

そして、うながされるままに、わたしはこれまでのいきさつを亜弓ちゃんに詳しく話して聞かせた。

 +

すべて話し終わるのに小1時間ほどかかった。
初めは身を乗り出して聞いていた亜弓ちゃんは、途中から姿勢を崩して苛立たしげに人差し指を机にとんとんとぶつけたり頬杖をついたり……ようはすっごいやる気ない態度に変わっていった。

「……あの〜、そんな感じなんだけど……」
「ふーん」
「あ、亜弓ちゃん?どうしたの?」
「別に……すっごい馬鹿らしい気持ちになってるだけ」

ば、馬鹿らしい!?
うっ、確かにわたしの浅はかさは呆れるくらい馬鹿らしいとは思うけど、この態度はちょっと傷つく。

「これ以上あたしが口挟んだら馬に蹴れて死んじゃうわよ、まったく」
「え?」

よく聞き取れなくて聞き返すと、亜弓ちゃんは憮然とした態度で「何でもないわよ」と言い捨てた。

「それで?」

突然の問いにわたしは首をかしげた。

「やっぱり一人で産んで一人で育てる気?」
「あ、うん」
「ふーん」

亜弓ちゃんは遠い目でどうでもよさげに相づちを打つ。

「亜弓ちゃんは、やっぱり反対?」

恐る恐る窺うように聞いてみると、亜弓ちゃんはにこっと笑って姿勢を正した。

「ううん。いいんじゃない。頑張って!」

な、何この変わり身!!
爽やかに拳まで握ってみせてるんだけど!てか、若干棒読みっぽく聞こえるのは気のせい?
訳が分からない!亜弓ちゃん、どうしちゃったの!?

「た・だ・し!」

突然、亜弓ちゃんはキッと恐い顔でわたしを睨んだ。

「陛下のところに行ってちゃんとお別れの挨拶をしてくること!」
「お別れ?」
「そ。もう会いません。さようなら、って行ってきなさい」

その場面を想像して、わたしは思わず涙がにじんできた。

「やっぱり、お別れしないとダメ?」
「ダメ」

容赦なく斬り捨てられた。

「別れなきゃ妊娠してんのバレるでしょうが。今はいいけど、あともう何ヶ月かたったらお腹出てくるわよ?太ったとか言って誤魔化す気?陛下はそれで騙されるほど馬鹿じゃないわよ?」
「う、うん……」
「妊娠のことは言わんでいい!あの男が何を言おうが”もうこれで最後”ってことを伝えてきなさい。理由は今から一緒に考えてあげるから、とにかく、もうこれ以上は会わない、ってきっぱり引導渡すの!それがけじめよ!」

亜弓ちゃんの真剣な声に気圧されて、わたしはただただ目を丸くしたまま勢いでうなずいてしまった。

 +

そして、その日の夕方、わたしは亜弓ちゃんに見送られながら先輩のマンションに向かうことになった。
今生の別れを告げに。

これから訪れる対峙のことで頭がいっぱいで、背後で亜弓ちゃんが

「謀りやがってあの男……。ちょっとは焦りやがれ」

と小声でつぶやいていたことに、わたしは気づかなかった。



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