5.コマ子さん、泣く(後)
「先輩」
わたしはベッドの上に正座をすると意を決して呼びかけた。
先輩もそれに答えるように、無言のままベッドの端に軽く腰掛けた。
「あの……」
「ん?」
「あの、今までありがとうございました!」
それだけ言い切ると、先輩の顔の表情を見るのが怖くて頭を思いっきり下に下げた。
わたしとしてはちょっと大げさにうつむいたつもりだったのだけど、端から見たら盛大に土下座したようにしか見えなかったかもしれない。
壁に掛けられた時計の秒針の音だけがやけに大きく響いた。
「は?」
わずかに苛立ちを含んだ先輩の声に、わたしはますます身を縮ませる。
「えっと……長らくご迷惑をおかけしてきましたが、図々しく今の位置に居座ることで先輩にこれ以上のご迷惑をおかけするわけにはいかないので、わたしは潔く身を引く決意を致しました。わたしごときが先輩に”消えろ”などとおこがましいことを言える立場ではありませんので、わたしの方が先輩の前から消えることにしまし痛い!」
突然、無理矢理首を持ち上げられて、ぐきっと嫌な音がした……ような気がした。
嫌でも視界に入る先輩の顔に表情はない。
けど、オーラで分かる。
とってもイライラしているご様子。
回りくどい言い方が気に障ったのかな?
「え、ええっと、あのですね、つまりは」
「黙れ」
「は、はい!」
先輩の大きな手で包まれた頬が熱い。
反対に、わたしを見つめる先輩の目は冷たい。
「今まであえて指摘したことはなかったが、今日こそ言わせろ。
お前の思考回路はおかしい!」
「し、思考回路ですか?」
「いちいち言うことが突拍子もないんだお前は!風が吹いたら桶屋が儲かるを素でやっているとしか思えん。
間をどれだけはしょっているんだ?言いたいことがあるなら結論だけではなく過程を話せ!さっきの発言の論拠はどこだ!?」
ろ、論拠?
つまりなんで身を引こうと思ったか話せってことかな?
そんなの……いちいち言わなくたって分かりきっているじゃない!
先輩ほどの頭の持ち主がそれが分からないはずはないのに、それをわたしの口から言わせようとする。
先輩はずるい。先輩は意地悪だ。先輩なんて、先輩なんて、大っき――。
再び熱い涙がこぼれた。
頬に触れる先輩の手を濡らしていく。
――言えない。心の中ですら言えない。
だって、そんなことこれっぽっちも思っていないんだもの。
どんなにずるくても、意地悪でも、好きなんだもの。
「……コマ」
表情は変わらないけど、その声は少しだけ困っているように聞こえた。
「だって……工藤さん」
そこまで言って、うっと詰まった。
「先輩には工藤さんがいるじゃないですか。昨日のことは何かのはずみだったとしたって許されるようなことじゃありません。先輩は工藤さんを選んだんでしょう?工藤さんのことが本気で好きなんでしょう?だから、あんな高そうな指輪をあげたんでしょう?先輩、今まで彼女さんに何か贈ったことなんてなかったのに!本気だからでしょう?だから工藤さんはあんなに嬉しそうだったんでしょう?わたしは工藤さんのこと嫌いじゃないです、むしろ好きです。だから辛いです」
と、捲し立てるように、すべてをさらけ出すように訴え……たかった。
でも、口から漏れるのは見苦しい嗚咽ばかりで、実際には
「せっ、ぱぃ……は、くど、さ……い……かぁ!き、お、は……み、で……ゆるさ、まっ……せん!」
とかそんな風にしか言えなかったから、多分先輩には半分も伝わってないと思う。
もう涙で先輩の顔も見えない。
ぐだぐだと泣き続けていると、わたしの頬を包んでいた先輩の両手がそっと離れたかと思うと、次の瞬間、おでこをコツンと指ではじかれた。
地味に痛い。
「バカか」
呆れたような顔と声。
だから、昨日も「バカです」って答えたのに……。
「あのな。表面的にしか付き合いのない人間ならいざ知れず、なんでここまで深く関わっているお前がそんな見当違いな考えに至るんだ?お前は、俺と工藤の何を見てきたんだ」
何、って……仲よさそうにじゃれついてるところとか、仲よさそうにおしゃべりしてるとことか……。
「お前は工藤とも仲が良いんだろう?だったら普通は気づくだろ。あいつが俺を見る目が恋する女のそれではないことくらい」
――え?
「俺は工藤の彼氏じゃない。従って、あの指輪を工藤に贈ったのも俺じゃない」
……ちょ、ちょっと待って!
あんまりびっくりして、知らずと涙が止まってしまった。
「あいつは今の彼氏を手に入れる、それだけのために俺に近づいた。俺にもそれなりのメリットがあったから側にいるのを許していただけだ。あいつは初めから今にいたるまで一貫して、ヤツを手に入れる、つなぎ止めることしか考えてない。
あの指輪だって、”付き合った記念に代金は自分が8割出すから買ってくれ”と半ば脅して手に入れたんだぞ。あのプライドの高い女にそこまでなりふり構わない行動をさせるなんて、相手の男も大したもんだ。まぁ、結局指輪の代金は男が全額払ったらしいが」
「う、嘘……」
思わずこぼれた独り言に、先輩は不快そうに眉をひそめる。
「俺が嘘をつくとでも?」
わたしは慌てて首を振る。
今まで、先輩がわたしに嘘をついたことは1回もない。
「これ以上いらん勘違いをされても困るから一応言っておくが、俺はお前と出会った3年前から彼女は一人も作っていない」
「え……えーーーーー!」
自分でもびっくりするくらいの大声でわたしは叫んだ。
だって、だって、じゃぁ、今まで彼女だと思っていた人なんだって言うの?
工藤さんだけじゃなくて、藤原さんも、江本さんも……他にもみんなみんな全員彼女じゃなかったの?
そう言われて見れば、直接先輩や工藤さんたちから「付き合ってる」と聞いたわけではなかったけど、でもでも、周りはみんなそうだと思ってたし、わたしには付き合ってるように見えていたし、それに何より……
……先輩はなんであんなに『抱く』のに慣れていたの?
彼女がいたことがなかったなんて、絶対おかしい。
だって、先輩の動きにはためらいみたいなものがまったくなかった。
そりゃ、わたしはあんなことしたの初めてだから、”普通”がどうなのか分からないし、あれが”普通”だと言われてしまえば反論のしようがないけど、でも、やっぱり先輩が初めてだとは思えない。
だって、抱いてる最中、先輩は口数は少なかったけど、ところどころでわたしを気遣うその言葉は経験なくしては出来ないものだった。
だからおかしい。絶対おかしい。
「なんだその目は。信用できないのか?」
ムッとする先輩に、パニック状態のわたしは思わずカッとなって口答えした。
「だって、先輩は工藤さんたちのことも抱いてるじゃないですか!」
あ、間違えた。
「抱いてますよね?」と疑問系で聞こうと思ったのに断定的な言い方になってしまった。
まぁ、ニュアンス的には大差ないから別にいいか。でも……
「な!」
絶句した先輩の顔を見て、わたしは驚いた。
なんと言えばいいんだろう。「先輩らしくない」という言葉が一番ふさわしいかもしれない。
先輩は口を半開きにしたまま、ひどく狼狽えた様子で視線をそらした。
図星。
まさか先輩が図星をさされて、こんなに焦った表情を見せるとは思わなかった。
気まずげな様子で先輩は「こほん」と一つ咳払いをした。
「……工藤たちはお前にそんなことまで話しているのか?」
「いえ、工藤さんたちからは何も聞いてませんけど」
わたしがそう答えると、先輩は顔をさっと赤らめるとわたしをキっと睨み付けた。
「工藤たちじゃなければ、一体誰が!」
「誰にも聞いてません。ただ、わたしがなんとなくそうなのかな、と思っただけです」
その瞬間の先輩の顔は、こう言ってはなんだけど、さらに見物だった。
顔にしっかり「しまった!」もしくは「墓穴」と書いてあった。
先輩は口元に手を当てると、悔しそうに、さらに苛立たしげに小さくうなり声をあげると、一瞬目をつぶって「くそ」と吐き捨てた。
そして、わたしの目を射殺すような鋭い視線で真っ直ぐと見据えた。
「あれは違う」
「違う?」
「だから、あれは違うんだ。確かに、抱いたことはないと言えば嘘になるが、あいつらはそういうんじゃない」
「そういう?」
「………っだから、彼女だからとか、好きだからとかそう言うんじゃなくて、なんというか……」
「何というか?」
物事を白黒はっきり断言する先輩がこんなに言葉に迷うなんて珍しい。何を言いたいのかさっぱり分からないわたしは、先輩の言葉をいちいち復唱していたのだけど、そんなわたしに先輩は恨めしそうな顔をする。
「あぁ〜〜……だから、あいつらとは……恋人でもなくて、友達でもなくて……大人の……そう、”大人の関係”だったんだ!」
ものすごく投げやりな言い方でそう叫ぶと、先輩はもう一度「くそ」とつぶやくと頭をかかえて項垂れてしまった。
なかなか復活する様子のない先輩を見つめながら、わたしは先輩の言い放った「大人の関係」というものを口の中で何度も反芻しながらその意味を考えてみた。
そして、ある考えに至って、わたしは目の前がさっと開けたような気持ちになった。
そうか、もしかしてわたし、ものすごい勘違いをしていたのかもしれない。
「あの……先輩?」
おそるおそる問いかけた声に、先輩はゆっくり顔を上げる。
「つまり、工藤さんたちのことを抱いたことはあるけど、それに特別な意味があるというわけではない、ということですが?」
「……そうだ」
ばつの悪そうな先輩の言葉に、わたしは自分の考えが正しかったことを確信し、安堵のあまり思わずにっこり微笑んでしまった。
そんなわたしに、先輩は一瞬目を丸くするとなんだか気味悪そうに眉をひそめた。
「大丈夫です先輩、ちゃんと理解しました。勘違いしてしまってすみません」
わたしは晴れ晴れした気持ちで頭を下げた。
その瞬間、不安から解放されたからか急に空腹感が押し寄せてきた。
顔を上げると、先輩はまだ不審そうな顔をしていたけれど、わたしは気にせずにっこり微笑んだ。
「先輩。お腹すきました。台所かしてもらってもいいですか?」
先輩は呆れたように溜息を一つつくとわたしの頭をぽんと叩いた。
「飯なら出来てる。味噌汁とだし巻き卵と漬け物だ。食うぞ」
「え?誰が作ったんですか?」
わたしの素朴な疑問に先輩は心底呆れたような顔をする。
「俺に決まってるだろ」
「え?先輩、料理できたんですか?」
「当たり前だろ。じゃなければ、一人暮らしの20歳の男の家にあんなに調理用具や調味料がそろってるわけないだろ」
なんだ。
亜弓ちゃんが言っていた「彼女がいる証拠」の最後の砦がここで崩れた。
なーんだ。
わたしは思わずこぼれる笑みが止められない。
「抱く」というあの行為。
あれをものすごく神聖で特別なものだと思い込んでしまったのが、最大の勘違いだったんだ!
あれは、お子様で無知なわたしが知らなかっただけで、「大人」だったら恋人同士とかじゃなくても、それなりに仲の良い関係であったら日常的に起こりうる「普通」の行為でしかなかったんだ!
だから先輩は工藤さんたちのことも抱いたし、わたしのことも抱いた。
今までわたしのことを抱こうとしなかったのは、きっとわたしが子供すぎたからなのね。
高校を卒業して、ようやくわたしのことも「大人」と認めてくれたということだ。
これを喜ばずして何を喜ぶ!
先輩に彼女はいなかった。
わたしは先輩に少しだけ近づけた。
いつか、先輩に彼女ができたら離れなくちゃいけないのは分かっている。
でも、もう少しだけ……あとちょっとくらい先輩の小間使いを続けてもいいかな?
わたしは先輩の大きな背中に向けて、心の中で問いかけた。
+
ちなみに、先輩の手料理はわたしなんか比べものにならないくらい美味しくて、情けなさのあまり、なんで今まで料理の腕を隠していたんだとなじってしまった。そんなわたしに放った先輩の一言。
「四苦八苦しながら、できないなりに一生懸命作ってる姿が面白かった」
そして、もう二度と先輩の前で料理なんかするものかと心に決めたわたしに、先輩は一言こう言った。
「お前のそういう向上心を、俺はとても尊いものだと思っている」
それから数日、わたしが台所にこもって先輩を超えるだし巻き卵の研究に勤しんだことは言うまでもない。
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