4.コマ子さん、流される(前)



それから先輩は、一度も振り返ることなく一言も口をきくこともなく一瞬の迷いもみせずに歩いて行った。

わたしの腕を掴んでいた先輩の大きな手は、いつの間にかわたしの小さな手をしっかりと握りしめていて、180cm近くある先輩に手を引かれた150cmしかないわたしの姿は、端からみたら警察官に連行される迷子の子みたいにしか見えないんだろうけど、わたしは心臓が大騒ぎするのを抑えるのに必死だった。

だから、地下鉄すすきの駅に乗り込んだ時も、二駅目のさっぽろ駅で降りたときも、先輩がどこへ向かおうとしているのか頭がまわらなかった。

先輩がやけに見慣れたマンションのエントランスに入ろうとしたところで、わたしはようやく目的地がどこであるのか理解した。

「せ、先輩?」

先輩は何も言わずにエレベーターに乗り込む。捕獲されているわたしも当然一緒に乗り込むことになる。

「あ、あの…もう時間も遅いですから、わたしは帰らないと」

先輩が、「バカかこいつ」と言いたげな顔で見下ろしてきた。

「どこへ帰るつもりだ?」
「え、えっと」
「鍵を忘れて家に入れないんだろ」

う、バレてる…

「でも、6時をすぎたら帰れっていつも先輩言ってるじゃないですか」
「時と場合による」
つれない先輩のお言葉と同時にエレベーターが止まってドアが開いた。

一番奥の角部屋の前まで来て、先輩はようやくわたしの手を離した。
そしてさっと鍵を開けるとドアの中に入っていった。
その後ろ姿を狼狽えながら見つめていると、先輩はくるっと振り返って鋭い視線をなげてきた。

「さっさと入れ!寒いだろうが!!」
「は、はい!すみません」
慌てて中に入ると、先輩はもう奥のリビングの方に消えていた。

本当にいいのかな…

どうしたらいいのか分からず玄関に立ち尽くしているとスウェットを手にした先輩が眉間にしわを寄せて、大変不機嫌そうな顔で戻ってきた。

「何している」
「途方にくれてます」
「そうか、とりあえず鍵をしめて靴を脱げ」

わたしは言われるままに従った。
いいのか悪いのか、先輩の命令には考えるより先に体が動いてしまう。

一旦、玄関に鞄を置くとわたしは身を屈めてブーツを脱いだ。体を起こして鞄に手を伸ばすと、わたしが掴むより先に先輩が持ち上げてしまった。

「早く上がれ」
「あ、はい!すみません!」

わたしの両足が上がりきったのを見届けると、先輩は無言で手にしていたスウェットをわたしに押し付けた。

「え…?」
「着替えだ」
「はい?」

なんで先輩の着替えをわたしに渡すんだろう?
…まさか、わたしに先輩の着替えを手伝えとかそういうこと!?

一瞬で真っ赤になったわたしを見て、先輩は少し目を見開く。
…その反応はどういう意味ですか?

「体が冷えただろ。風呂に入れ」
「え、あの」
「アイツから電話がかかってくる直前まで俺が入っていたからまだ温かいはずだ。ぬるいようなら好きにお湯を足してかまわない」
「先輩は?」
「気が向いたらお前の後にでももう一度入る。いいからさっさと入れ。風邪ひくぞ」
「は、はい!」

背中を押してバスルームに追い込もうとする先輩。
わたしは首だけ振り返って押し付けられたスウェットを少しかかげてみせた。
「あの、これはどうすれば…」
「だから着替えだと言ってるだろ。それとも何か?俺の服など着たくないとでも?」
「えっ、え!わたしの着替え?」
「何度同じことを言わせるんだ」
「は、はい!すみません!」

慌てて飛び込んだバスルームのドアを背にわたしはふぅと息を吐いた。

びっくりした。
そうだよね。わたしったら何勘違いしてるんだろう、恥ずかしい。

あまりの展開の早さにまだ混乱してるみたいだ。

わたしはパンっと軽く両頬を叩くとセーターの裾に手をかけた。



少しぬるめのお湯につかりながらわたしはぼんやりと天井を見上げた。
先輩の家には何度も来ているけど、もちろんバスルームに入るのは初めて。
……というかリビング以外にはほとんど入ったことないんだけど。
あ、キッチンには時々入ってるか。
先輩が「小腹がすいた」というものだから四苦八苦しながら初めて作ったチャーハンは、味はともかく見かけがすこぶる悪かった。先輩は真顔で「お前らしいな」とだけ言って完食してくれたけど、申し訳なくて情けなくて、あれから数週間は毎日お母さんにはりついて料理の特訓をしたっけ……。その成果あって、今ではお母さんも唸るほどの腕前なのはちょっとした自慢。
あぁ、でもそのことを亜弓ちゃんに言ったら、
「彼女がしょっちゅう来てる証拠ね。普通、一人暮らしの大学生男子の部屋に調理道具や調味料一式なんてないわよ。雅也のキッチンなんて淋しいものよ」と指摘されて凹んだりもした。
あぁ、あれからもう1年以上たつのか……

はぁ……。

ていうか、わたしは一体何をしているんだろう?
先輩のことを諦めたくて、諦めるために合コンに行ったはずなのに、気づいてみれば、今までいたことのない時間に先輩の家にいて、今まで入ったことのないお風呂にまで入っていたりする。

……ダメじゃない。

あぁ、もう!しっかりしなきゃ!!
やっぱり、先輩ともう1回ちゃんと話そう。
このままここに泊まるわけにはいかない。

わたしは「うん」と頷くと、勢いよく立ち上がった。

 +

決意を新たに脱衣所に出たわたしは早速その決意を砕かれた。

脱いだ場所に脱いだ服がない!
横では静かに音を立てて軽快に動いている洗濯機。

わぁ、さすが先輩!我が家のおんぼろ洗濯機と違って高性能!
夜中にまわしてもとっても静か!!

……なんて感心している場合じゃない。
もう、「絶対このスウェットを着ろ」と言うことですね。
せめてもの情けなのか、下着だけはわたしが脱いだままの状態でスウェットの横におかれていた。
女の子ならここは赤面して、

「きゃー!先輩に下着を見られちゃった!!どうしよう!」

とか思わないといけないんだろうけど、すでに高校時代、豪快にパンツをさらしたことがあるわたしはこんなことでは動じない。
というか、多分先輩自身が悲しいくらいにこれっぽっちも動じてないだろうから、気にする方がバカみたいだ。

はぁ。

わたしは先輩のスウェットを手にして溜息をついた。
服を人質ととられてしまっては仕方がない。さすがに先輩のスウェット姿で冬の夜空を彷徨えるような度胸はない。今日だけお言葉甘えて泊まらせてもらおう。

 +

リビングのドアをそっと開けると、先輩はソファに寄りかかってなんだか難しそうな顔で本に視線を落としていた。
多分、わたしじゃ何が書いてあるのかチンピンカンプンな横文字の本かな。
すごく真剣な顔。
うぅ……やっぱり素敵だなぁ。先輩はいつでもどこでも素敵だけど、こうやって何かに没頭している時のぴりっとした雰囲気がわたしは一番好きだなぁ。
亜弓ちゃんには「あの雰囲気が恐くないどころか好きだなんて……あんたマゾなの?」と言われちゃったけど。

「あの、先輩。お風呂、ありがとうございました」

そっと声をかけたわたしに、先輩は「ん」と言って顔を上げた。
そして、わたしの姿を見た瞬間、一瞬目を見開くと、思いっきり眉をひそめて、左手で顔の半分を覆って盛大な溜息をもらした。

えーと、なんだろう、この反応。
今までさんざん呆れられたり叱られたりしてきたけど、こんな反応は見たことがない。

「……は……た」
「え?」

いつもはきはきとものを言う先輩にしては珍しく、何を言っているのかほとんど聞き取れなかった。
先輩は顔を上げるときっとわたしをにらんで吐き捨てるように言った。

「下はどうした!」
「……し、下?」
「スウェットの下だ!バカ!」

言われてわたしは、スウェットの上だけを着た自分の体に目を落とした。

「いや、あの……大きかったんで」

男の人の中でも大きい方の先輩の服は、女の中でもとりわけ小さいわたしには当然大きすぎる。
一応、上下とも着てはみたのよ?
でも、上だけでも太ももの半分くらいの長さがあって、下にいたっては腰のゴムがゴムの役目をはたしてくれなかった。両手でおさえてないとずり落ちてきそうで歩くのもままならない。

上だけ着るなんてだらしないかなとも思ったけど、短めのワンピースだと思えば変ではないはず!と割り切ってそのまま出てきちゃったけど……

こうやって改めて見てみると、なんだかお父さんのパジャマをこっそり着てはしゃいでる5歳児みたい?
あ……なんか急に恥ずかしくなってきた。
いたたまれなくてもじもじしはじめたわたしに、先輩は呆れきった視線を向ける。

「お前はバカなのか?それとも天才なのか?」

えっと……バカか、てんさい……天災?

「バカだと思います」

わたしの返事に、先輩は脱力した様子で首を横に振る。

「あぁ、バカだな。もうとんでもなくバカだ。ただ、時々お前が天才としか思えないことがある。
お前は人の厚意や我慢を踏みにじることにかけてだけは天才以外の何者でもない!」

先輩の厚意や我慢を踏みにじる……天災?

なんだろう、この状況で考えられることってなんだろう。
わたしは先輩からどんな厚意を受けて、何を我慢させたの?
先輩の立場になって考えてみよう。

先輩はせっかくお風呂に入って温まっていたところ、世話の焼ける後輩からのSOSで呼び出され寒空の中迎えに行かされた。マヌケな後輩はこの春から短大生だというのに愚かにも鍵を忘れて家に帰れない。情けをかけて泊めてやろうと家に連れてきたけれど、その後輩は大して感謝する様子もみせずにぐずぐずしてばかり。なんとか自分の服を貸し与えて風呂場に追い込んで一息をついていたら、突然体が冷えてきた。やはり風呂上がりにそのまま外に出たのがまずかった。しかもよくよく考えれば、後輩に貸したスウェットは自分のパジャマだった。換えのパジャマはすべて洗濯中。一応は女の後輩のためだと我慢しようと思っていたのに、風呂から上がった後輩は、せっかく人が寒いのを我慢して厚意で貸してやったスウェットを上しか着ていない。なんという不届きもの……!こんなヤツは後輩じゃない!もはや天災だ!

ものの10秒で以上の想像を膨らませたわたしは、一気に体から血の気が引いた。

「すす、すみません先輩!わたしはなんて不義理者だったんでしょう!とっても反省しました!もうわたしのことなどお気になさらずにさっさとお風呂に直行して下さい!なんなら今着ているこのスウェットもひっぺがして下さって構いません!!」
「バカか!そんなことを言うのなら本当にひっぺがすぞ!」
「はい!どんと来いです!!」

そう言って大きく両手を広げたわたしを、先輩はしばらく恐いくらいの真顔で凝視した後、大げさな溜息を一つ吐くと今度は両手で顔を覆ってしまった。

「お前、今自分が何を言ったか分かってないだろう」
「分かってますよ」
「いや、分かってない。お前が何を考えてそんな結論にたどり着いたのかはさっぱり分からんが、お前が何も分かっていないということだけはよーく分かった」



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