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 【3章 ジュリエットの気持ち】


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 放課後部活へ行くと、顧問の先生に会議が入ってしまって、今日の合奏は中止、と音楽室の黒板に書かれていた。
 うちのパートも後輩たちが学祭の準備で心ここにあらずなのが目に見えて分かったから、早々に練習を切り上げることにした。
 わたしもさっさと帰ろうと思っていたのだけど、引退後の副部長の引き継ぎや楽譜の整理など片づけないといけないことが山積みで、結局いつも通りの時間になってしまった。

 美砂は今日もお情け程度に音出しだけしてさっさと帰っていた。コトちゃんの入院先へ直行するらしい。
 いつもは美砂と2人で並んで歩く中庭を、2日続けて一人で歩くことになった。
 黙っていると言うことのない美砂がいないとこの世界には自分しかいないんじゃないかと錯覚するくらい静かな気がする。少し淋しいけど、じっくり考え事をするにはちょうどいいかもしれない。


「たーなかさーん」

 この声。このテンション。
 間違いない。
 考え事がすべて吹き飛ばされそうになる。
 無視したい衝動に駆られたけど、思わず立ち止まってしまったのが運の尽きだ。

 振り返ると、思ったとおりの人物が走り寄ってきた。
 授業がないからか鞄も持ってきていないらしい。
 両手をポケットに突っ込んでいる。

「神くん……」
「田中さん、今帰り?俺も今終わったとこ」

 何が嬉しいのかにへらと笑う。

「あれ、今日、美砂は一緒じゃねえの?」
 神くんは額に手をやるとおおげさに辺りを見まわしてみせた。

「美砂は家の用事で先に帰った」
「へえ、じゃ一緒に帰ってもいい?」

 ……あんまりよろしくはない。

 明らかに嫌そうな顔をしたのに、神くんはそんなわたしの様子などお構いなしに閉まりかかってる校門を指さして「ヤバイ、閉められる!田中さん、走れ」と言って走り出した。わたしも慌てて走り出す。
 たとえ幽霊部員でもサッカー部に所属していることから想像がつくように神くんは足が速い。特に短距離は相当速い。50mぎりぎり9秒代のわたしは足がもつれそうになりながら必死で追いかけた。

 息を切らせて校門にたどり着くと、施錠担当の先生が笑いながら背中をさすってくれた。
「そんなに全速力で走らなくても、閉じこめたりなんかしないぞ」

 いや、分かっているんですけど。
 神くんが走り出すからつい乗せられてしまって……。

 そう反論しようにもぜはぜは言うばかりで言葉が出てこない。
 こんなに一生懸命走ったのは久しぶりだ。

「田中さん、情けないなー。そんなんじゃ、トップアスリートになれないぞ」

 初めからなる気ないから!

 わたしは神くんを軽く睨みつけると、体を起こして先生にお辞儀して歩き出した。
 神くんも先生に「さよなら」と挨拶すると、わたしの横に並んだ。
 一緒に帰ると言った覚えはないのだけど、神くんは初めからわたしの答えなんか聞く気もなかったようだ。

 こういうところ、美砂に似ている。
 だからなのか、わたしは神くんを完全に拒絶することが出来ない。
 わたしは観念して、神くんが歩きやすいように少し左に寄って道をあけた。

 目立つ神くんと一緒にいると他人の視線がやけに気になる。
 たしか神くんは今、珍しく誰とも付き合ってなかったはず。
 ヤだな、変な噂が立たなければいいけど。
 そう言えば、美砂のパートの後輩が神くんをねらってるって言ってたけど誤解されたらやっかいだな。

 やっぱりもうちょっと距離をとろうかと一瞬足を止めかけたけど、神くんの歴代彼女の統計からしてわたしは神くんの好みのタイプじゃないから大丈夫だろう、と思い直して気にしないことにした。
 ちらっと横目で見ると、神くんは空を見上げながらのんびりした足取りで歩いていた。
 何か用があって一緒に帰ろうと言った訳ではないのかな?
 神くんという人は、いまいち何を考えているのかよく分からない。


「あ、そう言えばさあ」

 黙っていたかと思うと唐突に話し出す。こういうところも美砂とそっくりだ。

「田中さん、ジュリエットやるんだって。なんで教えてくれないんだよ」

 からかう調子で言う神くんの言葉にわたしはギョッとした。
 いや、落ち着け。神くんのことだ、カマかけかもしれない。

「何のこと?」
「だから、劇だよ劇。1組もロミジュリだってだけで寝耳に水だったってのに、田中さん、めちゃくちゃ演技上手いらしいじゃん。さらにインパクトでも、俺のジュリエットにまったく引けを取らないってクラス中大絶賛なんだって?うちのクラスもロミジュリじゃなかったら単純に楽しめたのになあ。すっげえ複雑」

 わたしは思わず立ち止まった。カマかけにしては、やけに詳しい。

「ま、同じジュリエット同士、一つよろしく」

 確信を持った目だ。
 神くんが右手を差し出して握手を求めてきたけど、それどころではない。

「ちょ、ちょっと待って。誰に聞いたのそれ」

 劇の内容はどんなささいなことでも外部にもらさないとクラス全体の不文律になっていたはず。確かに今日配られてたプログラムで演目が「ロミオとジュリエット」であることは明かされた。でもそれ以外のことはまだ秘密のはず。神くんが言ったことは秘密事項の中でもトップシークレットだ。
 一体誰が漏らしたんだ!

「誰って、陽介。原田陽介。あいつもキャストなんだろ?」

「へ?」

 わたしはなんともまぬけな声を出していた。
 それくらい思いがけないことだったのだ。

 演技が上手い。
 神くんのジュリエットに引けを取らない。
 
 たった今、神くんが言ったことだ。
 つまり、原田が神くんにそう言った?

 ありえない。
 あいつがわたしを評価するはずがない。
 そもそも、今のあいつが、他人の前でわたしの話題を出すなんて考えられない。

「うそ」

 神くんおなじみの冗談かと思った。
 でも、神くんは心外だという顔をして否定した。

「そんな嘘ついてどうすんだよ。ほんとに陽介が言ったんだって。
さっき練習終わった後、たまたまあいつに会ったんだけど、俺がうちのクラスは最高だ、絶対優賞だって言ってたら、『うちのクラスのジュリエットの方がすごい』って。あ……そう言えば思わず言ってしまったって感じだったかな。
一瞬『まずいこと言った』って顔してたけど、俺が『いや、絶対俺のが上手い』って言ったら、どんどんムキになって、最後は大絶賛だったぜ。普段クールぶってるのが嘘みたいに」

 そんなはずない。

「陽介がそこまで褒めるなんて、誰がジュリエットなのか気になるだろ。
でもさあ、それはいくら聞いても全然答えないんだよ!
だからカマかけて『もしかして、田中さん?』って言ったら見事に顔色変えてくれちゃって」
 神くんは「ひひひ」と笑った。

 嘘だ。あの原田が……。

「あいつさ、自分じゃ気付いてないみたいだけど、相当田中さんのこと気にしてるのな。
今回のことに限らずさ、俺がさりげなく田中さんの名前を口にすると、あいつ決まって目をそらしたり、真顔になったりするんだ。なんとも思ってないふりしてるけど、耳ダンボになってるの丸分かり。ああ見えて意外と可愛いとこあるんだよな」

 神くんが面白そうに笑うのを聞きながら、わたしはまだ自分の耳が信じられなかった。

「あ、俺がこんなこと言ってたっての、あいつには内緒な。バレたら絞められる」

 内緒も何も、わたしたちの間に会話なんか存在しない。

 なんなの、一体。
 金村さんといい、神くんといい、他の人が語る原田は、別の人間のことみたいだ。
 原田はわたしの存在を無視しているんじゃなかったの?
 わたしのことが嫌いなんじゃないの?
 さっぱり分からない。

「んん?どうした、田中さん。もしかして、田中さんも陽介のことが気になる、とか?」

 神くんが、面白そうなことを発見した、とでも言いたげな顔で覗き込んできた。

「なってない」
 わたしは真顔でそう答えると歩き出した。
「またまた〜、田中さんも素直じゃないよなあ。陽介とそっくり」

 いつもの神くんの軽口だ。
 そう思って黙殺しようと思ったけれど、それにはダメージが大きすぎた。
 訳が分からない。頭がこんがらがる。

「わあ、見て、田中さん」

 後ろからの呼びかけは無視した。
「ほら」
 かまわず歩き続けていると、つんと袖を引かれた。
「空!すっげえ綺麗」

 ……空?

 言われるままに空を見上げると、夕焼けで空がピンク色に染まっていた。
 うっすらとかかった雲は紫色だ。

「綺麗……」

 赤い空と紫の雲……。
 以前わたしは、わたしと原田の関係を空と雲の色にたとえた。

 空は青くて、雲は白い。
 それと同じように、わたしと原田の関係は決まり切っていると。

 でも、実際の空は時間や季節、場所によってこんなにも違う。
 いつも同じ色なんてありえない。
 空の色が変化しているように、原田とわたしも自分で気付かないうちに変化しているのだろうか。

「田中さん」

 いつもと違う、真剣みの帯びた声で神くんが言った。

「陽介はさ、いいヤツだよ」

 空を見上げたまま、神くんが言った。
 わたしも同じように、空を見ながら
 「うん」と返事をした。

「不器用だけどさ、いいヤツなんだよ」

「うん、知ってる」

 そう、知ってる。
 原田は、いいヤツだ。
 10人に聞いたら、8人から9人は「いいヤツ」だと答えるだろう。

 でも、知ってるからこそ辛い。
 原田が嫌なヤツだったらよかったのにと、何度思ったことだろう。

「そっか、知ってたか」
 神くんは照れくさそうに「へへ」と笑った。

「陽介も知ってるよ」
「何を?」

「田中さんがいいヤツだってこと」