【2章 ロミオの戸惑い】
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放課後は、キャスト班にとっては一番練習出来そうで実はろくな練習が出来ない時間帯だ。
HRの後、15分間掃除をして30分間はクラス拘束時間だけど、その後は部活動優先と決められている。俺ら運動部は引退しているから関係ないけど、学校祭が最後の発表の場となる文化系部はどこも忙しそうだ。
大道具や小道具だったら、1人2人抜けようが大した支障は出ないのだろうが、キャストはそういう訳にはいかない。特にうちのクラスの場合、主役の田中とメインキャストの那須が抜けてしまうから実質何も出来ないと言ってもいい。
半数はさっさと帰り、残りの半分は自主練と称して残ってはいるけど、そのほとんどは駄弁っているか他班の邪魔をしているかのどっちかだ。本当に練習をしているヤツなんて1人いるかいないかというところだろうか。
俺はいつもはさっさと帰る組だけど、今日は金村さんにジュリエットのことを聞きたくて、駄弁り組に混じって金村さんが1人になるのを待つことにした。
金村さんは貴重な自主練組。
演出もやってるせいで大道具班や小道具班からも引っ張りだこでなかなか体が空きそうもない。結局、教室が空になり金村さんが暇になったのは、完全下校の15分前だった。
「金村さん」
後ろから声をかけると、帰り支度をしていた金村さんは小首をかしげて俺を見上げた。
「ちょっと、劇のことで聞きたいんだけど」
俺の言葉に、金村さんはぱっと目を輝かせて、胸の前で両手を組んだ。
芝居じゃなくこんな仕草をする人間がいるのかと、ちょっと驚いた。
「いいよ、なんでも聞いて!原田くん、やっとやる気になってくれたんだ。わたし嬉しい」
なにやら大いなる勘違いをしているようだ。
訂正しようかと思ったけど、金村さんは一人合点して、「よかった、よかった」と言いながら、上 機嫌で台本を取り出している。何を言っても無駄そうだ。
「昼休みに、カイたちと話してたんだけど、ジュリエットはなんでロミオが嫌いなんだ?」
金村さんは台本からゆっくりと顔を上げた。
「台本、何度も読み返してみたけど、やっぱり分からなかった。ジュリエットがロミオを嫌う理由はなんだ?」
金村さんはじっと俺の顔を見つめると、わずかに微笑んだ。
「なんでだと思う?」
「いや、だから、分からないから聞いてるんだけど」
「それを考えて欲しくて、舞台練習まで練習はしないことにしたんだよ」
「だから、考えても分からなかったんだって」
「うーん、じゃあ、ロミオはなんでジュリエットが嫌いなの?」
金村さんの意図が分からない。俺は少しいらいらしてきた。
「ロミオがティボルトを好きで、ティボルトがジュリエットを好きだからだろ。自分はどんなに想っても報われないのに、あろうことか親友のマキューシオに恋をしたジュリエットが許せなかった。
金村さんが自分で言ってたじゃないか」
俺がそう言うと金村さんは駄々っ子をなだめる母親のような顔でくすりと笑った。
「そう、確かにわたしはあの時先生にそう説明した。でも、あの答えは解釈の一つであってすべてじゃない」
なんだか話しがだんだんと禅問答のようになってきたぞ。
「正しい答えなんてないのよ。だって、わたしにも分からないもの、ロミオの気持ちもジュリエットの気持ちも。だから、原田くんは原田くんなりの答えを見つければいい。わたしと同じ解釈をする必要なんてない」
「なんだか無責任だな」
俺が苦笑すると、金村さんも困ったような顔で笑った。
「難しく考えなくてもいいんだよ。ロミオがジュリエットを嫌いな理由は別に嫉妬でなくてもいいの。そう、例えば『なんとなく気にくわないから』、とか」
金村さんは俺の目をまっすぐ見つめて、挑戦的にそう言った。
『なんとなく気にくわない』
金村さんは、俺と田中のことを一体どこまで知っているんだ。
なんだかそら恐ろしくなってきた。
「なんでジュリエットはロミオを嫌ったのか、だったよね、原田くんが知りたいのは。
でもね、大切なのは理由じゃないの。分からなくて当然なんだよ。きっとロミオも分からなかったはずだから。分からなかったから、悲劇が起こった。
相手の気持ちを考えることは大切だよ。でも、そのためにはまず自分の気持ちを知らなくちゃ。
考えて、原田くん。
なんでロミオはジュリエットを嫌ったか。ロミオはいつからジュリエットを嫌い始めたのか。なぜ、ロミオは死んでしまうのか。死の瞬間、ロミオは何を考えたのか。ロミオにとって、ジュリエットとは何だったのか。
わたしが言えるのはそれだけだよ」
金村さんはそう言って、穏やかに微笑んだ。
ジュリエットはロミオの何だったのか。それを考えろ。
「……それは、台本の上の“ジュリエット”のことか?それとも……」
俺が最後まで言えずに黙ってしまうと、金村さんは意地悪そうに、にっと笑った。
「どっちでも。どちらにしろ、同じことだから」
つまり、金村さんにとってロミオは俺で、ジュリエットは田中、と言うことか。
の割には、金村さんが書いたロミオもジュリエットも、俺と田中のイメージとはほど遠いような気がするけど。
「金村さんは、ジュリエットが嫌いなのか」
吉村たちに「悪女」とまで言わせた女性像。
皮肉のつもりだったのだけど、金村さんは真面目に驚いてみせた。
「まさか。嫌いじゃないよ。一途で、一生懸命で、でも不器用で……、それから、愚かで。見捨てられない。それはロミオも同じ。よく似ているのかもしれない、ロミオとジュリエットは」
「似ている?ロミオとジュリエットが?」
「うん、似てるよ。“ロミオ”と“ジュリエット”は、ね」
金村さんは「ロミオ」と「ジュリエット」を強調してそう言った。
俺と田中が似ている――、そう言いたいのだろうか?
ジュリエットの気持ちを知りたくて、金村さんに聞いたはずなのに、ジュリエットどころかロミオのことまで分からなくなってきた。
「もう完全下校だね」
金村さんはにっこりと微笑みかけると「じゃあ」と手を振って出て行った。
*
時計を見ると5時55分……完全下校の5分前だった。
仕方ない、俺も帰るか。
ふうと息を長く吐き出すと、机の上に無造作に放り投げておいた鞄に手を伸ばした。
「あれ、どうしたの?」
廊下の方で金村さんの声がした。
「うん、忘れ物しちゃって。金村さんはまだ残ってたの?」
耳に飛び込んできた、もう1人の声に俺はどきりとした。
「うん。田中さんは部活?」
……田中!
まずい、このままじゃ、教室で鉢合わせだ。
「そう、あっちも追い込みだから、もうてんてこ舞いだよ」
どうしたらいい。後ろのドアから出るか?
「じゃあ、わたしは帰るね。お疲れ」
ダメだ。後ろから出ても田中は俺の姿を見るだろう。
まるで田中が来たからあわてて逃げたみたいじゃないか!
(いや、実際そうなんだけど)
「うん、金村さんもお疲れー」
どうする。
ガラっ。
笑顔で教室に一歩足を踏み入れた田中は、そのままの姿勢で固まった。
古典的、と言ってもいいような固まり方だった。
俺は俺で結局どうすることも出来ず、鞄を肩にひっかけた姿勢のまま立ち尽くすしかなかった。
微妙な沈黙。
次の瞬間、田中は弾かれたように顔をそらすと、体育の時間の鈍臭さからは想像も出来ないような素早い動きで自分の席へ飛んでいって、机の中を覗き込んだ
俺は田中に気付かれないように、静かに息を吐くと視線を床に落とした。
次に顔を上げた時、田中の姿はもうこの教室にはないだろう。
変わらない、俺たちの関係。一定の距離を保ったまま。
正直、居心地は悪い。
それでも、これ以上関係が悪化するくらいなら、気まずいままの方がましだ。
田中もそう思っているはずだ。
俺は田中が教室を出て行くのを静かに待った。
ところが、教室はしーんとしていて、いつまでたっても立ち去る気配はない。
なんで出て行かないんだ。
俺が先に出て行くのを待っているのか?
苛立つ俺は、しばらくそのまま待ってみたが、やはりなんの動きも感じない。
……仕方がない。俺が出て行くか。
観念して、俺が顔を上げると同時に、田中が動いた。
ドアではなく、俺の方へ向かって。
なんで?
田中は視線を下に向けながら、どんどんと近づいてくる。
今、自分の目に映っているものが信じられなかった。
劇の練習の時でさえ、自分からは決して近寄らなかった田中が、俺を目指して歩いてくる。
田中は俺から1mほど離れたところで立ち止まった。
視線は相変わらず足下だ。
どうして。
なんで突然。
訳が分からなくて、冷や汗が出てくる。
「あの」
何かを絞り出すような声だった。
「聞きたいことがあるの」
聞きたいこと?
「イエスかノーだけでいい。答えてほしい」
震えるような声。
顔は下を向いているから表情は分からなかったけど、おなかの前でにぎりしめた両手はかすかに震えていた。
「原田は……」
いったい、何を聞こうとしているんだ?
「原田は、今でも、わたしのことが嫌い?」
一語一語、噛みしめるように、田中はそう言った。
『大嫌い……。あなたなんか大っ嫌いよ』
そう語るジュリエットと同じ声で、俺に問う。
今でも自分のことを嫌いなのかと。
『わたしは一生あなたが嫌いよ。死んでも、生まれ変わっても、永遠に、ずっとずっと大嫌いよ』
俺を嫌いな田中が俺に聞く。
いまでも自分のことを嫌いなのかと。
『嫌うなら、嫌えばいい。わたしもあなたが嫌いよ。あなたがわたしを嫌う以上に、あなたのことが大嫌い。ずっとずっと、何倍も、あなたのことが大嫌い』
ジュリエットは、なぜそんなにもロミオを嫌った?
分からない。
俺には、“ジュリエット”の気持ちが。
「今でも、わたしのことが嫌い?」
いつまでも再開しないゲームに痺れを切らして、サイコロをふったのは田中の方だった。
田中が出した目はなんだったのか。
俺は、どう動いたらいいのか。
分からない。
(2章了)
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