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 【1章 ジュリエットのため息】


 4−(2)



 次の日、あの時教室にいなかったキャストの子も、ほぼ全員集合時間の8時にちゃんとそろっていた。こう言う時のクラスの団結力と言うのは恐ろしい。
 集合時間を10分すぎたところで、原田が姿を現した。

「ロミオ、遅い。もうみんな集まってるよ」

 続木さんは原田の腕を引っ張って、当然のようにわたしの横へ連れてきた。
 これで練習ももう3回目。
 いいかげん慣れそうなものなのに、いまだに原田の横に立つと萎縮してしまう。
 これはもう、長年かけて培われた条件反射のようなものらしい。

「んじゃ、今日は時間もないし、とりあえず舞踏会のシーンまでいこうか」

 すっかり事実上のリーダーが板に付いてきた金村さんがてきぱきと指示を出す。
 一方、名ばかりのリーダーはと言うと、腕組みをしながら満足そうにうなずいていた。


 出だしは上々だった。
 わたしも家で猛練習したかいあって、台本を見ないですらすらとジュリエットを演じる。
 少し生意気そうに、それでもどこか可憐さをにじませる、恋を知らない無邪気なジュリエット。

 昨日さんざんだったから、みんなわたしの出来を心配していたみたいだけど、わたしの演技に感心したような表情をしている。わたしもだんだん気持ちよくなってくる。
 ロミオと出会うシーンも、独白の部分は無難にこなすことが出来た。

 でも、そこまでだった。
 二人が接触するシーンにさしかかると体は徐々に萎縮しはじめ、声はどんどん自信なさげになってくる。こころもち顔もほてっているような気がする。

『わたしの卑しい手が、あなたの美しい手に触れる罪を許していただけますか』

 あからさまにやる気のない原田の声。

『手、に触れることに、つ、罪はありません…わ』

 声がかすれる。

『あなたはお優しい、卑しいわたしに祝福を』

『いやし、いだなんて…ご自分がかわいそうで、す』

 原田が立つ右側の脇の下だけじっとり汗がにじんでくる。
 みんなの視線がわたしたちに集まっているのを痛いほど感じる。
 みんなが今、何を考えているか容易に想像出来るだけに、顔を上げることが出来なかった。


 水曜の朝練はバルコニーのシーンを練習した。出来は火曜よりもひどかった。

 木曜の朝練は後半のシーンをやる予定だったけど、まったくやる気のない原田と、挙動不審もいいとこなわたしに、とうとう他のキャストが怒り出した。

「ちょっと、まじめにやってよ」

 突然の続木さんの怒声に、わたしはびくっと身体を震わせた。
 自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。
 続木さんは、ちょっと口が悪いとこはあるけれど、基本的には明るく気のいい子で、決して声を張り上げるようなタイプではない。

「そうだよ。こっちはせっかくやる気になってるのに、主役2人がそんな調子じゃ、まじめにやってるあたしらがバカみたいじゃん」
 続木さんと仲のいい槙さんが心底腹立たしそうな表情で言いつのる。

「特に月夜ちゃん。照れるのは分かるけどさ、いくらなんでもひどすぎ!最初の1、2回は我慢出来ても、もうさすがに限界!」

 続木さんの冷たい視線がわたしを刺す。

「そうそう、うちらだってそんなに暇じゃないんだけど。毎朝早く起きて朝練してるのに、ちっとも進まないからうちらの出番回ってこないじゃん。やってらんない!」

 クラスで一番派手な米森さんも激しい剣幕でまくし立てた。
 わたしは何も言えず、ただただうつむくことしか出来なかった。

「もう今日はやめよ」

 続木さんたちは言うだけ言うと台本を机に叩きつけて教室から出て行ってしまった。

「あ、つづちゃん、まっきー。ごめん、あたし追いかける」
 美砂は金村さんに目で合図すると、3人の後を追って出て行った。
 真っ青な顔で立ち尽くすわたしを見て、尚子がそっと肩を抱いてくれた。
「大丈夫だよ。はじめの部分は完璧だったじゃない。練習不足なだけだよ、ね?」
 尚子の慰めの言葉も、今のわたしには無意味だった。

 怒られて当然だ。
 もしわたしがあの三人の立ち場だったとしても、きっと同じことを考える。
 心の底から申し訳ないと思う。

 ……思うのに、なんでちゃんと出来ないんだろう。


 その日は一日中、授業に身が入らなかった。
 慰めてくれた尚子も、何も言わなかった他のキャストのみんなも、きっと続木さんたちと同じ気持ちだったんだと思うと、教室にいるのが息苦しく感じてしまう。
 昼休みも、美砂のおしゃべりに上の空で相づちを打ちながら、ずっと今朝のことばかり考えていた。

「わたし、トイレ行ってくる」
 美砂はご飯をほおばりながら、さっと右手を挙げた。「行ってこい」の合図だ。
 わたしと美砂は、1年の時から同じクラスで、毎日ほとんどの時間一緒にいるけど、お互い、女子特有のベタベタしたつきあいが好きではない。
 だから、トイレまでいちいちついて行ったりしないのだ。


 わたしがトイレに入っていると、2、3人の足音が聞こえてきた。

「でもさ、ほんとムカツクよね」

 槙さんの声だ。

「正直がっかりだよね、月夜ちゃんには」

 続木さんだ。
 もう一人いる。おそらく米森さんだろう。3人はいつも一緒だ。
 トイレに入ったのに、個室に入る気配はない。おそらく髪型のチェックでもしに来たのだろう。

「ほんと、あんなんだったらあたしが立候補すればよかった」
「そうそう、原田が相手役だしねぇ」
「別に、それは関係ないってばあ」

 続木さんと米森さんがしきりに槙さんのことをからかっている。
 そっか、槙さん、まだ原田のことが好きなんだ。

 小学校時代、わたしは、槇さんをリーダーとする一部の女子にも嫌われていた。
 槙さんは原田のことが好きで、原田と話しをあわせるために、一緒になってわたしを嫌っていたみたいだ。
 理不尽だとは思ったけど、気持ちは分からなくもなかった。
 可愛い恋心だ。槇さんを恨む気はしなかった。
 槇さんは、中学に入ってしばらく接点はなかったけど、中3で再び同じクラスになった時には特にわたしを嫌っているようなそぶりを見せなかったから、もう原田のことは好きではないのかと思ったけど、そういう訳ではなかったみたいだ。

「あーあ、せっかくやる気になってたのになぁ。あんなんじゃ2組に負けちゃうよね」
「うんうん。笹木さんって劇団に入ってるし、将来は女優になるのが夢なんだって」
「マジで?勝ち目ないじゃん。神もいつになくやる気だし。ああ〜もう!ほんとムカツク、月夜ちゃん」
 
 分かっていたけど、ショックだった。
 陰口をたたかれたこともだけど、自分のせいでクラスのみんなのやる気が削がれていることが、申し訳なさすぎて、胸がしくしくと、痛かった。