本編(第2部現在)より少し先の未来の話です
バレンタイン小話:佐倉家と生チョコレート
2月13日 ボウルに入った茶色の物体を眺めながら永遠子はため息をついた。 以前、稔のために作ったシフォンケーキとプリンは無惨な結果になったけれど、 あれは初心者のくせに難しいお菓子にいきなり手を出し、”少しだけ”勝手なアレンジを加えてしまったせいであって、今回作っているのはあらゆるチョコレート菓子の中でももっとも失敗しにくい「生チョコ」、さらに本屋で厳選に厳選を重ね、『超かんたん!猿でも作れるお菓子作り』という永遠子にぴったりのレシピで作っているのだ。失敗する方がどうかしている。 永遠子はそう言い聞かせながらボウルに顔を近づけた。 ――甘い……。 永遠子が甘いものが苦手だった。 幼い頃は平気で食べていたらしいのだが、物心つく頃には苦手になっていた。 何かきっかけがあったのか家族に聞いてみたら、父親はばつが悪そうに顔を背け、 母親は困ったように苦笑して、兄はなぜか取っ組み合いを始めた。 別に甘いものが食べられなくても不便はなかったので、以来気にしたことはなかったけれど、甘党な稔と付き合うようになってから、永遠子は自分の体質を呪っていた。 味見が出来ないのである。 レシピを信じれば不味くはないはず、と分かっていても不安は消えない。 どんなものでも永遠子が作ったものならば、稔は喜んで食べてくれるだろう。 現に前回大失敗したケーキもプリンも残さず食べてくれた。 でも、出来ることなら美味しいものを食べてもらいたいのが乙女心というものだ。 永遠子は恨めしい思いで窓から見える空っぽのガレージを見つめた。 本当は母に味見役を頼むはずだったのだ。 しかし今朝、頼むつもりでレシピを片手にキッチンへ顔を出すと、母が今まで見たことがないほどの笑顔で永遠子に飛びついてきた。 「永遠子ちゃん!聞いて聞いて!お父さんがね、今日デートしてくれるって!思い切ってお願いしてみてよかった!初デートよ、初デート!結婚20年にして初デート!」 永遠子が初デートに誘われたときでも、ここまでは喜ばなかった。 母の学生時代はどれだけ灰色だったのかと思うと切なくて泣きたくなってくる。 そして母は少し声をひそめて永遠子の耳元で囁いた。 「だから私たちが留守の間に稔くんにチョコレート作ってしまいなさい。お父さんに見つかったら大変よ」 ウインクする母に、永遠子はただ小さくうなずくことしかできなかった。 「どうしましょう……」 ボウルに目を戻してつぶやいた時。 「永遠子、どうした!」 久が服を乱して飛び込んできた。 「永遠子、大丈夫か!」 一歩遅れて永が髪を乱して飛び込んできた。 部屋にこもったまま、2人で一体何をしていたのか……。 ――兄弟で禁断の愛……とかでしょうか? キッチンにこもっている永遠子の様子をどちらが見に行くかで、いつものように取っ組み合いの喧嘩をしていただけの彼らは、まさか永遠子が大変不本意かつ不名誉な勘違いをしていることなど知るよしもない。 「愛」に関しては無駄に理解のある永遠子は深くは聞かないことにして、兄に味見役を頼むことにした。 「あの、生チョコを作っているのですが、味を見て貰えませんか?」 永と久は顔を見合わせた。 「「六波羅のか?!」」 「六原です。レシピ通りに作ったので不味くはないと思うのですが」 永と久は再び顔を見合わせると、意味ありげににやりと微笑んだ。 「まかせておけ!」 「どれどれ」 「うん……」 「ああ……」 「……まずいですか?」 不安げに問う永遠子に、兄は笑顔で首をかしげた。 「まずくはない」 「ああ、まずくはない」 「及第点だろう」 「まずまずといったところだな」 兄の言葉に、永遠子は心底ほっとした。前回の大失敗を思えば「及第点」で十分だ。 「じゃあ、このまま固めます」 永遠子がトレイにチョコを移そうとボウルに手をかけると、久がそれをとめるように手を重ねた。 「いやただ、”少し”甘さが足りないんじゃないか?」 「そうですか?レシピ通りなんですけど」 「いや、少し砂糖を加えた方がいい」 「え、砂糖ですか?生チョコはチョコレートの甘さだけでいいってレシピに……」 「いやいや!六波羅は甘党だろう?」 「六原です。たしかに六原さんは甘党ですけど……」 「同じく甘党の俺らが言っているんだ、安心しろ」 「砂糖は……たしか買い置きがこの辺にあったな」 久は戸棚から取り出して、はさみを入れた。 「ほら」 差し出された砂糖袋に永遠子は途方に暮れる。 「どれくらい……いれたらいいですか?」 「「一袋」」 「え、そんなに?」 「甘党の人間は、甘ければ甘いほど喜ぶものだ」 「永遠子も彼に喜んでほしいだろう?」 たしかに、喜んでほしい。 永遠子自身は甘いものが苦手なので甘党の気持ちは分からない。 ――そういうものなのか。 永遠子は砂糖を一袋チョコレートに投入した。 へらでかき混ぜるとやけにざらついた感触がする。 見た目も、「砂糖入りのチョコ」というより「砂糖のチョコレートあえ」と呼ぶ方が適切そうな状態になってしまっている。 「あの……本当に、これでいいんでしょうか?」 自信なさげに問いかける永遠子に、兄たちは満足そうに「大丈夫だ!」と太鼓判を押す。満面の笑みだった。しかし、 「じゃあ、味見してみてください」 という永遠子の言葉に、兄たちはそろって表情が固まった。 「永くん?久くん?」 永と久は顔を見合わせると、覚悟を決めた表情でスプーンをボウルに差し入れた。 2人がゆっくり口に運ぶ様を、永遠子は一瞬も目をそらさずにじっと見つめてくる。 「「う」」 口に入れた瞬間飛び出したうめき声に、永遠子が不安げに 「ダメですか?」 と問いかける。 「うまい!」 永が叫んだ。 「ああ、うまい!」 久も叫んだ。 2人とも、若干涙目になっている。 口内は唾液を大量分泌させてなんとか口に広がる甘さを忘れようとしている。 人間の防衛本能というのはすばらしい。 「本当ですか?」 「ああ、本当だ!」 「絶対、さっきよりこっちの方が美味しい!」 「六波羅もきっと喜んでくれるだろう!」 「六原です。よかった」 永遠子は、ほんのわずかに口元をゆるめて目を細めた。 滅多に見れない永遠子のささやかな笑顔であった。 * ちなみに、この「チョコレート風味の砂糖」完成品は兄と父の口にも入ることになるのだが、3人とも1日中青い顔をしてすごすことになったとか。 おまけはこちら 同日の六原家の様子は「バレンタイン小話:六原家とチョコクッキー 」で |