8:桃色空気



 六原稔は、佐倉永遠子の無表情で本に目を落とす端正な横顔を、隣の席で頬杖をつきながらじっくりと観察していた。
 交際3日目にもなれば、永遠子も慣れたのか気味が悪いほど熱心に読書に没頭している。
 かのように見えた。
 稔は気づいていた。
 永遠子の目が、本に落とされたある1点からまったく動かず、本を繰る手は10分前から完全にとまったままであることに。そんな様子がおかしくて、かわいくて、稔はくすっとほほ笑んだ。

「面白い?」

 稔の声に、永遠子はゆっくりと視線を向けた。
 稔はにこにこ…いや、にやにや、と言ったほうが適切かと思われる笑みを浮かべて永遠子を見つめていた。

「その本、面白い?すっごく真剣に読んでるみたいだけど?」

 横から稔の刺さるような視線を感じて、緊張してしまってページはさっきから1ページも進んでいない。
 永遠子は動揺を出さないよう顔を引き締めた。(傍目には違いはまったく分からないので余計な気遣いではあるのだが)

「面白いです」
「それはなんていう本?」

 稔の何気ない質問に、永遠子は一瞬詰まって、机の上の本に目を走らせた。
 本日の永遠子チョイス本。
 ブックカバーの下に隠れた表紙は、極度の面食い永遠子にとっては涎垂ものの美少年と美青年が半脱ぎ状態で絡み合っている。
 男子高校生はまず手に取らない類の本。一言でいうならBL。
 紛うことなく男子高校生である稔には抵抗のあるものかもしれない。
 正直に答えるのが憚られ、永遠子はしばし沈黙することになった。

「……」
「どうしたの?」
「……たぶん、六原さんはご存じない本かと思います」

 妙に突き放した言い方に、稔は「おや?」と思う。

「まあ、俺は姉さんとは違って本は滅多に読まないからな」
「はい」
「俺も、本読んでみようかな」
「はい」
「じゃあ、その本今度貸してくれない?」

 いいことを思いついた、と目を輝かせる稔とはうらはらに、永遠子は大いにうろたえキツイ調子で声を上げた。

「ダメです!」

 教室に、嫌な沈黙が流れた。
 永遠子は、自分の失言に自分で驚き、言い訳を考えようとうつむいてしまった。
 そんな永遠子の様子を、稔は悪いと思いながらも興味深い気持ちで観察していた。
 ここ数カ月のやりとりで、永遠子の人間性はよくわかっている。
 永遠子は言葉が足りないだけで、考えなしではない。むしろ考えすぎる。
 今回も、何かいろいろと考えすぎたせいで飛び出した言葉なのだろうと、容易に想像がついた。

「じゃあさ、この前の『なみだ色』、あれ貸してよ」
「……『なみだ色』、ですか?」
「うん」
「いいですけど……」

 『なみだ色』も、BL本ほどではないけれど、男子高校生が読んで面白ものとは思えず、永遠子は首をかしげた。稔はそんな永遠子のしぐさを微笑ましそうに見つめると、そっと身を乗り出した。

「姉さんに聞いたんだけど、あれ、映画化して今上映してるんだって?」
「はい」
「もう観た?」
「いいえ」
「今度、観にいかない?」
「え」
「嫌?」
「いいえ!」

 永遠子は首が千切れるほど大きく横に振った。稔はおかしそうにほほ笑んだ。

「うん。だから、観る前に原作読んでおきたいから。貸して?」
「はい」

 *

 鬼教師を恐れて誰も近づかない生徒指導室横自習室。
 そこに流れるほんわか桃色空気。
 日に日に濃くなっていっているような気がするのは……勘違いではなさそうです。