9:非常識な常識



 その日、六原稔が生徒指導室横自習室に入ると、いつもの定位置で本を読んでいた佐倉永遠子がはじかれたように顔を上げた。
 稔は嬉しそうに破顔すると軽やかな足取りで永遠子のとなりの席に腰を下ろした。

「こんにちは」
「こんにちは、永遠子ちゃん」
「これ、お約束していたものです」

 永遠子はそう言って、鞄から一冊の本を取り出すと、稔に差し出した。

「ああ、『なみだ色』?早速持ってきてくれたんだ」

 稔は受け取ると、ぱらぱらとめくってみた。
 元々携帯小説ということで横書きで書かれており改行も多く、普段読書の習慣のない稔でも読みやすそうだった。しかし、思った以上にページ数があり、稔は少しひるんでしまった。

「ありがとう。永遠子ちゃんは1冊何日くらいで読むの?」
「その長さの本なら1、2時間です」
「1、2時間!?」
「厚い本でも、だいたい1日もあれば」
「す、すごいな……。申し訳ないけど、俺はこの本でも1週間くらいかかると思う」
「はい」
「今日は月曜だから……うーん、今週中に読めるかな……。もし無理だったら映画は来週でもいい?」
「はい」
「永遠子ちゃん」
「はい」

 稔は永遠子の相変わらずの無表情に苦笑した。
 何を考えているのかやっぱりさっぱり分からない。
 早くデートができなくて残念がっているのか、ほっとしているのか、はたまた何も考えていないのか……。
 永遠子は質問すれば必ず答えてくれるけど、質問しなければ決して自分から話そうとはしてくれない。というか、永遠子の方から稔に質問することは皆無である。
 そのことに唐突に気づいた稔は、なんだか無性に悔しくなった。

「永遠子ちゃんは俺に質問とかないの?」
「え?」
「なんか、いっつも俺ばっか質問してて、永遠子ちゃんは全然俺のこと聞いてこないしょ。永遠子ちゃん、実は俺のことあんまり興味ないとか?」

 稔のすねた口調に、永遠子は大きく首を振った。

「そんなことないです!」
「じゃあ、何か質問してよ」

 質問と突然言われても何を聞いていいのか、人づきあいをほとんどしたことのない永遠子は、自分から進んで質問をした経験もまったくなかった。
 どんな質問をするのが普通なのか、考え込んで視線を机の上に落とした。
 その瞬間、目に飛び込んできたのは本日の永遠子チョイス本。
 「幼なじみ」をテーマにした人気作家のアンソロジー。
 永遠子の頭にはある疑問が一瞬にして降ってわいてきた。

「六原さんには幼なじみはいますか?」
「は?幼なじみ?」

 稔に永遠子の入り組んだ思考回路を理解できるわけもなく、突拍子のない質問に驚きの声をあげた。永遠子は考えの読めない無表情で稔の答えを待っている。

「いや……あいにく、うちは転勤族だったから子どもの頃は転々としてて、幼なじみと呼べる人間はいないけど」

 稔の答えに、永遠子はほっと胸をなで下ろした。

「そうですか…よかった」
「よかったって……なんで?」
「もし、幼なじみの方がいたら、その方に悪いですから」
「悪いって、なんで?」
「たとえ一時の気の迷いだとしても、自分以外の子と付き合われたら気分が悪いと思いますので」
「は?」
「はい?」

 稔は、永遠子に表情がないことを心底恨めしく思う。
 しばし熟考の後、稔は一つの考えにたどり着き、呆れる思いでそれを口にした。

「もしかして、それも少女漫画の常識?」
「はい」
「少女漫画では幼なじみはくっつくものと相場が決まってるから、俺に幼なじみがいたら困るな〜、とそう思ったってこと?」
「はい」
「て言うか、”一時の気の迷い”ってことは、もし俺に幼なじみがいたら最終的に俺と別れるつもり?」
「幼なじみの間に割り込む同級生というのは、基本的に悪役です」
「自分は悪役だと?」
「はい」

 どこまで本気なのか表情からはまったく窺い知れないけれど、おそらく全部本気で言っていそうなところが心底おそろしい。

「永遠子ちゃんはどうなの?幼なじみ。いないの?」
「いません」
「ふーん」
「近所に同年代の子はいたのですが、わたしは人見知りが激しいので、いつも一人でいるか、兄にかまってもらうか、どちらかでした」
「そっか」
「わたしにも、六原さんにも、幼なじみがいなくてよかったです」

 永遠子は非常識な人間ではない。
 日常の細々したことや世界情勢や社会認識は、同年代の子よりもよっぽどよく精通している。
 ただし、一般的な交友関係、学園関係、恋愛関係に関しては、本や漫画で仕入れた突拍子もないおかしなものを”常識”だと思いこんでいる節がある。
 稔は思わず頭を抱えたくなった。
 以前、姉がいると言っただけでシスコンと間違われたときも、「漫画と現実は違う」と言ったはずなのに、この様子じゃまったく理解できていなさそうだ。

「これは荒療治が必要かな…」

 稔はぼそりとつぶやくと、さっと立ち上がってきょとんとしている(つもりの)永遠子の前へ行くと、机に手をついて上から永遠子を見下ろした。

「永遠子ちゃん」
「はい」

 真っ直ぐなまなざしで見つめる稔を見上げて、永遠子は思わず息をのんだ。

「少女漫画では、こういうシチュエーションだと、この次はどんな展開になるの?」
「こういうシチュエーションって……」

 稔は目を細めて少しだけ体を前に乗り出した。

「放課後。
 人気のない校舎。
 付き合って間もない高校生カップル。
 2人きりの空き教室。
 見つめ合う2人。
 少しずつ縮まる2人の距離……」

 そう言って、稔はにっと笑うとさらに顔を近づけようとした。
 永遠子は、頭の中に今まで読んできた少女漫画の似たようなシーンがコマ送りで再生され、体中がぼっと熱くなった。

「ダメです!」
「なんで?少女漫画じゃ常識なんだろ?」
「でも!」
「嫌?」
「い、嫌というか…」
「じゃあ」
「い、今じゃないとダメですか!?」
「今がいい」
「ででででも!まだ心の準備が!」
「じゃあ5秒待ってあげる」
「5秒じゃ無理です!」
「じゃあ10秒」
「無理です!」

 これらのやりとりの間中、永遠子はもちろんまったくの無表情だったけれど、顔色は今まで見たこともないくらい真っ赤で、声は尋常でないほどせっぱ詰まっており、稔は猫かぶりで鍛えた演技力でしつこく迫る男を演じていたけれど、内心は永遠子の焦りっぷりが面白くて可愛くらしくて浮かれあがっていた。

「10秒たった」

 稔は永遠子の頬に手を伸ばした。
 永遠子は必死で稔の手をつかむと少し潤んだ瞳で訴えかけるように(しているつもりで)稔を見上げて首を小さく横に振った。

「ダメなんです。今日、わたし下着が……」

 完全に主導権を握ったつもりで調子に乗りかけていた稔は、その一言に一瞬頭が真っ白になった。

「……え?」

 永遠子は稔のそんな様子には気づかずに、切実に自分の主張を続けようとした。

「今日の下着、子どもっぽいプリント柄なんです。
お、男の人にはいろいろ事情があることは知ってます!したくなったら止められないとか……。
で、でも女にも別の事情というものがありまして、やはりこういうことは双方の同意が……って
六原さん?どうしたんですか?」

 稔は永遠子のとんでもない暴走に初めは思考停止し、次に脱力し、さらには笑いがこみ上げて、ついには机に突っ伏して肩をふるわせることになった。

「と、とわ、永遠子ちゃん……」
「……はい」
「多分、俺らの間には重大な齟齬があったと思う」
「齟齬…ですか?」
「うん」

 稔は、笑いをなんとか腹に収めると、涙でにじんだ目をぬぐいながら言った。

「俺がしたかったのは、キスなんだけど」

 稔の言葉に、永遠子は一瞬固まり、次の瞬間蒸気が噴き出すほど赤面した。

「永遠子ちゃんは……ふふ。一足飛びにもっと先のことを考えちゃったみたいだな」
「ち、違うんです!」
「まさか下着とか言われるとは」
「あの」
「最近の少女漫画って過激なんだな。学校でいたしちゃうわけ?」
「い」
「永遠子ちゃんのえっち」
「いやーーーーーーーーーーーーー!」

 永遠子は突然立ち上がって大声を上げると、真っ赤な顔を両手で覆い、ドアに向かって走り出そうとした。稔も素早く立ち上がると、ドアの前に先回りして、勢いを殺せずに飛び込んできた永遠子をぎゅっと抱きしめた。

「ダメだよ、永遠子ちゃん。大声だしたらまた権田が乱入して来ちゃう」

 永遠子はその腕から逃れようと必死でもがいたけれど、しっかりとホールドされて体はぴくりとも動かない。

「永遠子ちゃん、落ち着いて」

 稔は安心させようとゆっくりと背中をさすりながら優しい声で語りかけた。
 永遠子の体は徐々に力が抜け、しばらくするとおとなしくなった。
 稔はそっと腕の力をゆるめると、少しだけ体を離して永遠子の顔を見下ろした。

「心配しなくても、俺は生徒指導室の横でコトに及ぶような勇者じゃないよ」
「……はい」
「最中に権田に乱入されでもしたら、さすがの俺でもごまかしきれる自信ないからね」

 からかうように言った稔の言葉に永遠子は再び赤面した。
 稔はにこりと笑うと左手は永遠子の腰に回したまま、右手を頭にぽんと乗せると、優しくなでた。

「分かった?少女漫画の常識ってのは、現実に起こりそうだけど実際には滅多に起こらないから、世の女の子たちは喜んで読むんだよ」
「……はい」
「実際に起こると焦るだろ?」
「はい」

 永遠子は穴があったら入りたい気持ちで俯きながら消え入るような声で返事を続けた。
 稔は小さい体をさらに小さく縮めている永遠子が、可哀想ながらも可愛らしく、ついつい悪戯心に再び火がついてしまった。

「というわけで永遠子ちゃん」
「はい」
「キスしていい?」
「………何が”というわけ”なんですか?」

 怪訝そうな口調で見上げる永遠子に、稔はにこやかに微笑んだ。

「だって、さっき永遠子ちゃんが拒んでたのは、えっちでしょ?キスを拒んだわけではないだろ?」

 永遠子は一度引いていた熱が再び加熱して、きっと稔をにらみつけた(つもりだった)

「嫌です!」
「なんで」
「意地悪だから嫌です!」
「優しくするよ?」
「わたし、怒ってるんです!」
「ごめんね?」
「謝ってほしいわけではありません」
「じゃあ、ありがとう?」
「感謝してほしいわけじゃ……もう訳が分かりません」
「ふっ」

 稔はわずかに笑い声をもらすと、腰に回していた手を離した。

「分かった。今日のところはいいや」

 永遠子は稔のあまりの変わり身の早さに拍子抜けしてぽかんと稔の顔を見上げた。
 稔はそんな永遠子にふわりと微笑むと挑戦的に宣言した。

「デートまでおあずけってことで」

「え?」

「ファーストキスは初デートで。少女漫画の常識だろ?」
「だ、だって、六原さん、さっき少女漫画の常識は現実には起こらないって……」

 うろたえる永遠子に近づくと、稔は耳元で爽やかにささやいた。

「少女漫画の常識はね、”たまに”なら起こるんだよ」

 *

 永遠子の非常識な常識に振り回されるのは、
 常識人の稔なのか、
 はたまた永遠子本人なのか。