7:小さな事件



 いつも通りの放課後。
 生徒指導室横自習室の前に、一人たたずむ佐倉永遠子の姿があった。
 永遠子が蝋人形を通り越して、もはや地蔵のようにがっちりと固まって自習室のドアを凝視するのには理由があった。

 昨日、学内の「王子様」六原稔と話の流れで付き合うことになった。
 さて、そんなことが現実に起こりうるのだろうか。
 少女漫画でなら起こる。
 しかし永遠子は、どう間違っても自分が少女漫画のヒロイン的要素を兼ね揃えているとは思えない。
 結論。
 昨日のことはすべて夢である。

 朝目覚めた永遠子は、てっきり今日はテスト最終日だと思って学校へやってきた。
 しかし当然のごとく今日はテストあけ第一日。
 次々と返却されるテストの答案に、夢ではないことを思い知らされた。

 つまり、今日は永遠子と稔にとって付き合って1日目、ということになる。
 さて、付き合って1日目の男女というのは普通どう振る舞えばよいのか。
 永遠子の恋愛教則本(少女漫画)では、ほとんどの場合
 その1:両想いになって終わる
 その2:物語開始時にはすでに付き合っている
 その3:事件が起こる
 そのどれかである。
 平凡な朝を迎え、平凡に授業を受け、平凡な放課後…なんて読者を惹きつける魅力のかけらもない少女漫画など皆無である。
 結果。
 永遠子は自習室前で地蔵化するに至った。

「何してるの?」
「……!」

 突然の声に肩をびくっと揺らして振り返ろうとすると、顔のすぐ横に稔の顔があり、面白そうに永遠子を見つめる瞳と目があった。

「入らないの?」
「入ります!」

 永遠子は素早く答えると、勢いよくドアをあけ腰まである長い髪をなびかせ教室へ入っていった。
 稔はその様子に、くすくすと笑いながらゆったりした足取りで後を追った。

「佐倉のクラス、数学の答案返ってきた?」

 一番後ろの列の真ん中の席に腰掛けた永遠子に、稔はいつもと変わらぬ様子で声をかけた。

「はい」
「あ、じゃあさ、問4の(2)、どうだった?あってた?」
「……はい。多分」
「マジで!?」

 稔はそう言うと、永遠子の隣の席に鞄を置くと、机を永遠子の机にくっつけた。

「今日、先生の模範解答聞いても、俺いまいちよく分かんなくてさ。よかったら教えてくんない?」
「……わたしでよければ」
「もちろん!学年首席じゃありませんか!」

 あまりに今まで通りの稔に、永遠子は「やはり昨日のあれは勘違いだったのだろうか?」と首をかしげながらも、にこにこと嬉しそうな様子の稔に水を差すわけにもいかず、黙って答案用紙を取り出した。

 *

「あ、な〜るほどね!そういうことか」
「はい。あとはこれを(1)で出した式に代入すれば終わりです」
「そっかそっか。分かった!いやぁ、さすが!先生よりよっぽど分かりやすいわ!」
「鈴木先生はご自分で分かりきっている部分は敢えて説明されないことが多いので」
「そうなんだよ!もしかして分かってないの俺だけ?とか思うと授業中断させてまで質問したら悪いかな〜とか思っちゃって」
「数学が得意な六原さんが分からないのなら、多分他にも分からない人はいるはずですから、質問しても問題ないと思います」
「そっか。助かった。今度から質問することにするわ」
「はい。お役に立ててよかったです」

 相変わらず無表情な永遠子の顔を横からのぞき込みながら稔は優しくと微笑んだ。

「佐倉はクラスのヤツに教えたりとかしないの?」
「話しかけられませんから」
「そうなんだ」
「はい」
「誰も?」
「はい」
「寂しくない?」
「……それが普通なので」
「そっか。もったいないな、佐倉のクラスのヤツは」
「……はい?」
「佐倉はこんなに面白いのに、それを知ろうとしないなんて、もったいなさすぎる」
「そんなこと言うのは六原さんだけです」
「まあ、そうだろうな」
「でも」
「ん?」
「六原さんにそういって貰えると、少しだけ自分に自信が持てます」
「そうそう。もっと自信もってもいいんだって、佐倉は」
「はい。今度、勇気出して自分から話しかけてみます」
「おお!頑張れ」
「はい」

 まっすぐ見つめる永遠子の瞳を見返して、稔はふと思いついたようににやりと笑った。
 そして、椅子を少し引くと横向きに座り直し、体ごと永遠子の方へ向けた。

「ところで、佐倉はなんで俺が数学得意だって知ってたの?」
「え……?」
「確かに俺は数学得意だけど、言ったことなかったよね?」
「……春の模試の順位で」
「ああ……そういや10位だったけ。佐倉は満点の1位だったけどね」
「はい」
「佐倉って、いちいち他の人の模試の順位まで気にしてるの?」
「いえ……」
「じゃ、なんで俺の順位を覚えてたのかな?」
「……」
「あれの順位出たのって俺らがここで初めて会ったころだっけ……」
「はい」
「そんな前から俺のこと気にしてくれてたんだ?」
「……」
「佐倉、か〜わいい」

 にやにや笑う稔に居たたまれなくなった永遠子はさっと顔をそむけた。
 その拍子に永遠子の長い髪が背中をさらっとそよいだ。

「前から思ってたんだけど、佐倉って髪長いよな。伸ばしてんの?」
「はい。……あ、いいえ」
「どっち?」
「いえ、あの伸ばしたいわけではないのですが、伸ばさざるを得なかったので」
「どういうこと?」
「美容院が苦手なんです」
「美容院が?なんで?」
「わたしが相手だと、美容師の方は気まずげなんです」
「ぶっ」

 無表情の永遠子に一生懸命必死で話しかけようとするも1分と続かず、吹き荒れる気まずげな沈黙に苦笑するしかない美容師の姿が目の前にありありと浮かんできて、稔は思わず吹き出すと自分の膝に顔を突っ伏して肩をふるわせた。

「そんなにおかしいですか?」
「……いや、おかしい、というか、面白い…くっは……腹痛い」
「大丈夫ですか?」

 永遠子も椅子を軽く引くと稔にまっすぐ向かい合った。
 稔はまだ少し苦しそうにお腹を押さえながらも体を起こすと、永遠子の胸のあたりに一房流れている真っ直ぐな黒髪に目をやった。

「じゃあ、ずっと伸ばしっぱなしなわけ?」
「毛先だけ、母に切ってもらっています」
「へぇ……」

 稔は手をさっと伸ばすと、永遠子の肩の辺りから一房髪をすくい上げた。
「すげぇ…さらさら」
 稔は何度か手ですいてその感触を楽しんでいたが、永遠子ががちがちに固まって自分を凝視していることに気づいて慌てて手を離した。

「ごめんごめん。あんまり気持ちよかったから、つい。また驚かせちゃった?」
「……はい」
「ごめんね?」
「六原さんはいつも行動が唐突なので反応に困ります」
「そっか、じゃあ今度からは予告してから行動することにするね?」
「はい。お願いします」

 永遠子の返事に、稔は嬉しそうにありったけの笑顔を見せると、椅子を少し動かして2人の距離をつめた。永遠子は訳が分からずただぽかんと稔の笑顔を見つめることしか出来なかった。

「ぎゅってするね?」

 稔は笑顔のままそう宣言すると腕を伸ばして永遠子を自分の胸に抱き寄せた。

「耳にキス」
「え」
「目元に」
「あの」
「頬」
「や」
「口…」

 肩と腰をがっちりつかまえられていた永遠子は、逃げ出すことも叶わず身動き一つとれずされるがままになっていたが、最後の言葉にあらん限りの力を出し切って稔を突き飛ばした。

 永遠子は表情こそはいつものように無表情だったけれど、その顔色は稔の目からも分かるほど真っ赤で、目も充血していた。

「残念。どさくさに紛れて出来るかと思ったのに」

 稔はさらっと言い切ると何事もなかったかのように、椅子を元の位置も戻した。
 永遠子はいまだ大騒ぎしている胸の鼓動を何とか鎮めようと俯いてゆっくり深呼吸をした。

「大丈夫?」

 どの口が言うか!?と思わず突っ込みたくなる言葉をさらりと吐く稔の顔は憎らしいほど穏やかだった。

「やっぱり、予告しなくていいです」

 永遠子は俯いたまま小さな声でつぶやいた。

「いいの?」
「はい。予告された方がよっぽど心臓に悪いということが分かりました」

 永遠子の、どこか諦めたような口調に、稔はたまらなくなって
「あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
 とうなり声をあげると、天井を見上げた。
 稔の謎な行動に、首をわずかにかしげた永遠子。
 そんな永遠子を、稔は愛おしそうに見つめると、「はぁ」と深く息を吐いた。

「永遠子ちゃん」
 突然呼ばれた自分のファーストネームに、永遠子は思わず目を丸くした(つもりだった)。

「さっき言ってた、クラスのヤツに話しかけてみるっての、もうちょっとだけ待ってくれない?」
「なぜですか?」
「話せば絶対みんな永遠子ちゃんのこと気に入っちゃうから」
「そんなこと」
「あと少しだけ、俺だけが知ってる永遠子ちゃんでいて?」

 *

 誰にも知られず、ひそかに始まった2人の交際1日目。
 恋愛教則本どおり、小さな事件は起こっていたのかもしれません、2人にとっては。