6:変化のとき(1)



 三日間の定期テストも終了し、佐倉永遠子は浮き立つ気持ちを抑えながら心持ち早足で生徒指導室横の自習室へ向かった。
 そして、そっとドアを開いて様子を探るように静かに足を踏み入れ、そこに誰もいないことを知ると一気に肩を落として落胆した。
 テスト期間中、自習室のもう一人の利用者、六原稔は一度も姿を現さなかった。
 どこにいてもそこだけ光がさしたように目立つ稔。
 遠目に見かけることはあっても、いつも大勢の人に囲まれている稔に自ら近寄ることなど、引っ込み思案(※あくまで本人の主観です)な永遠子にできるわけがなかった。
 自習室だけが、2人をつなぐ場所。
 稔が自習室に来てくれないと、永遠子は稔に近づくことさえできない。

 永遠子はしょんぼりとしたまま、一番後ろの席に座ってぼんやりと窓の外を眺めた。稔がいないと、大好きな本を開く気力すら生まれてこない。

 はあ……

 永遠子が大きなため息をついたその時、自習室のドアがさっと開いた。
 永遠子が慌てて顔を向けると、待ち望んでいた人物が大きな紙袋を二つも両腕にさげて自習室に入ってくるところだった。
 永遠子と目があった稔が、うれしそうに顔をほころばせ挨拶をしようと口を開くと同時に、永遠子が
「こんにちは!」と声を出した。
 稔は、永遠子の口からは聞いたこともないくらい大きな声にひるんで一瞬うしろにのけぞった。

「お、おう!久し振り!」
「お久しぶりです」
「どうした?今日は元気いいじゃん。佐倉の方から挨拶してきたの初めてじゃない?」
「はい」

 永遠子はうれしさのあまり思わず自分の顔がだらしなくにやけていると感じ、慌てて真顔に戻した。
 もちろん稔には、ほんの一瞬目元がわずかに細められたようにしか見えなったのだが。

「ほんとは昨日一昨日も来たかったんだけど、うちの母親の教育方針で、中学んときからテスト期間中は寄り道できないんだ」

 稔は両腕の紙袋を床にどんと下ろすと、肩をぐるっとまわして「よっこいせ」とじじくさい言葉を吐きながら永遠子の前の席に座った。

「大きな荷物ですね」
「ん?ああこれ?お菓子。佐倉も食べる?」

 稔は紙袋から一目で手作りとわかるラッピングのカップケーキ、チョコレート、クッキー、その他多種多様なお菓子を永遠子の机に並べてみせた。

「今日、俺、誕生日だったんだ」
「えっ」
「プレゼント何がいいか聞かれてさ、ものだとかさばるし、食い物なら佐倉と一緒に食えるかなーと思ってお菓子がいいって言ったら、この通り、店開けるくらいもらっちゃって。
どうぞ、好きなのとって」

 にこにこと笑いながら促す稔を、永遠子は茫然と見つめた。

「あれ?もしかして、甘いもの好きじゃなかった?」
「…………特別、好きではないです」
「なんだ……。じゃ、いいや。帰って姉さんにでもやるかな」

 すごすごと紙袋にお菓子を詰め込んでいく稔を見ながら、永遠子は、自分は稔のことを知ったような気になっていたけど、実はほとんどなんにも知らないのだと気づき、こっそり落ち込んでいた。

 お菓子をすべて紙袋に戻した稔は、あらためて永遠子に向き直るとさっと両手を差し出した。
 考え込んでいた永遠子は無反応で机を見つめ続けた。

「……佐倉〜?」

 呼び声にはっとして顔をあげると、思った以上に近い位置に稔の顔があり、永遠子は肩をびくっとふるわせた(つもりだった)。

「俺、今日誕生日なんだけど」
「おめでとうございます」
「うん。だから」

 稔はにこにこ笑いながら手を差し出す。
 永遠子は無表情で手を見つめる。

「何かちょうだい?」

 稔はにへらと笑う。
 永遠子は真顔で見つめる。

「あいにくお菓子はもってません」
「別になんでもいいよ」
「人様にあげられるようなものは持ち合わせてないです」
「別にものじゃなくてもいいよ」
「ものじゃなくても……?」
「うん、たとえば、ほっぺにチューとかでも」

 稔はにやっと笑った。
 永遠子は驚きのあまり、口をぽかんと開けた(つもりだったが、実際には軽く隙間が開いた程度だった)。

 稔は永遠子の反応を一瞬でも見逃すものかと、愉快な気持ちで観察し続けた。
 もちろん、からかっただけで、本気で永遠子がそんなことをすると思っていたわけではない。
 ほんのわずかでも感情の変化が見れればいいな、という軽い気持ちからの発言だった。

 それゆえに、永遠子がとった行動は稔の呼吸を一瞬止めることになった。

 何を思ったのか、永遠子は稔の右手をそっと引き寄せると、そのまま自分の口元へ導いて、その指先に唇を寄せ、小さくちゅっと音をたてて、キスをした。