14:外敵認定(4)



「ありがとうございました」

 営業スマイルの定員に見送られて店を出ると同時に、永遠子の携帯が音を奏でた。

「メールです。見てもいいですか?」

 稔に確認をとる永遠子を微笑ましく見下ろして、稔は笑顔で促した。
 永遠子は携帯を開いた。

 実は、永遠子と稔が一緒に食事をするのは初めてだった。
 「蝋人形」などと呼ばれているせいか、永遠子はあまり「ものを食べる」という印象がない。
 てっきり小食かと思っていたが、意外なことに彼女は大食家であった。
 一人前のお好み焼きをぺろっとたいらげ、まだ食べたりなさそうだったので稔は自分の分もいくぶん分けてあげた。この小さな体のどこに消えていくのか不思議だ。
 食べている間は食事に専念したいのか、黙々と一心不乱に口に運んでいる姿は、まるで冬支度のリスが頬袋にどんぐりをつめこんでいるかのようで、会話はなくともいつまでも眺めていたいと思えるくらい非常に楽しいひとときだった。

 稔が、永遠子の食べている姿を思い出して、くすっと笑みをもらした瞬間、

「あぁ……」

 という永遠子の困ったような呆れたようなつぶやきが聞こえた。

「どうしたの?」

 横から携帯をのぞきこむと、改行もなくひたすら続く言葉の数々。スクロールをいくらしてもいっこうに終わりが見えない。
 相手が誰なのかはなんとなく予想がついたけれど、念のために聞いてみた。

「誰?」
「永くんです。久くんからも届いてますけど、多分ほとんど同文だと思うので読む必要はなさそうです」

 永遠子はスクロールの手を途中でやめ、メール画面を閉じた。

「メールだと埒が明かないと思うので、電話してみてもいいですか?」

 電話→居場所を突き止められる→強制連行(もしくは死刑執行)

 いやだーーーー!

 と力一杯思うけれど、答えを待つ無表情な永遠子が餌をおあずけされている子犬のように見えてきて……

「いいよ」

 結局、永遠子には敵わない稔。
 永遠子の無表情は、こちらの感情によって喜んでいるようにも怒っているようにも悲しんでいるようにも見えて非常にやっかいである。

「すみません」

 そう言って、素早く操作をして耳に携帯をあてた瞬間

『永遠子!!!!』

 一歩離れたところにいた稔の耳にまでその声が届いた。

「久くん?……永くんの携帯にかけたはずですけど?
……え?違いますよ。たまたまアドレスの順番が永くんの方が上だっただけで
……あ、永くん?
……ちょ、
……永く……久くん……あの……あ、」

 永遠子は携帯を耳から離し、しばらくじっと見つめると「ふう」とため息をついて通話を切った。

「えっと……お兄さん、なんだって?」
「……さあ?電話口でまた2人だけで盛り上がってしまって……困った兄です」
「そう……だね」

 稔は苦笑いをしながら、そっと腕時計を確かめた。
 いつの間にかもう4時すぎだ。映画を観て食事をしただけなのに随分疲れた。

「永くんも久くんも、今日はどうしてしまったんでしょう……いつもはこんなにわたしに構ってこないのに」

 永遠子の独り言に稔は今日一日ずっと気になっていたことを尋ねてみたくなった。

「ねえ、永遠子ちゃん?」
「はい」
「永遠子ちゃんって、お兄さんのこと名前で呼んでるんだね」

 兄が現れた瞬間、永遠子が彼らを「永くん、久くん」と呼んだことに内心驚いていたのだ。
 永遠子は初めて自習室で会ったときも、一瞬も迷うことなく、稔のことを「六原さん」と呼んだ。
 女子高生で同級生を「さん付け」で呼ぶ人間というのはかなり少数派だと思うが、それも永遠子の個性だろうと思っていた。
 そんな永遠子であれば当然兄のことは「お兄さん」と呼んでいるのだろうと漠然と思っていたのだ。

「変……ですよね」
「いや、変というか意外だなって」
「母がそう呼んでいたので自然と……」
「ああ、そうなんだ」
「ちゃんと”お兄さん”と呼ぼうと試みたこともあったのですよ。兄たちが中学にあがる時、さすがに4つも年上の兄を名前で君付けもないだろうと思って。でも……」
「でも?」
「永兄さん、久兄さんと呼んだら、泣いて嫌がられました」
「……泣いて?」
「はい。後にも先にも、兄の涙を見たのはあの時だけです。『なぜ突然そんな呼び方をするんだ』とか『お前にそんな呼ばれ方はしたくない』とか、しまいには『俺はお前の兄じゃない』とか訳の分からないことを言い出したので、そんなに嫌がるのならあえてこだわる必要もないかと思って、以来ずっと名前です」
「ふーん、じゃあさ」

 稔は素早く距離をつめると、少し身をかがめて永遠子の目線にあわせた。

「俺も泣いたら、名前で呼んでくれる?」
「え」
「俺はいつまで”六原さん”なの?」
「あ……」
「他人行儀すぎると思わない?」
「え、っと……泣くほど、嫌ですか?」
「うん?」

 稔は曖昧に微笑んでみせる。
 別に”泣くほど”嫌なわけではないけれど、兄たちは名前に君付けで彼氏の自分が名字にさん付けというのはどうにも面白くない。

 永遠子はもちろん稔のそんな思惑など気づきもせず、言われた言葉をそのまま理解した。

「分かりました。ただ、わたしは不器用なのですぐには無理だと思います。時間がかかってもいいですか?」
「不器用って?」
「家の中と外で呼び方を変えるのは難しいので」
「……変える必要あるの?」
「あ、いえ、実は、母が……」

 もしや佐倉家は兄だけでなく母まで永遠子至上主義なのだろうか。
 稔は思わず顔がひきつりそうになる。

「母からは男女関係なく身内以外の人間は名字にさん付けで呼ぶよう言い聞かせられているのです」
「それはまた……ずいぶん変わった教育方針だね」
「いえ、教育方針というか……。母は心配性なだけです」
「もしかして、お母さんも俺と付き合うことに反対してたりするの?」
「え?いいえ。それはないです。六原さんのことを話したら目を輝かせてました。母が心配しているのは父のことです」
「お父さん?」
「はい。わたし、小学校の4年生のとき、クラスに憧れている男の子がいて、一度父の前でその子の名前を出したことがあったんです。父はその時ただにこやかにわたしの話を聞いてくれていたのですが、その1週間後、突然その男の子が転校してしまったんです」

「え、それって……まさか、お父さんが?」

 口を濁す稔に、永遠子は少し首をかしげてみせる。

「いえ、ただの偶然だと思います。当時父はまだ30代半ばですし、そもそもただのサラリーマンです。そんな権限があるわけないんです。でも、母はそのことをものすごく気にして……。父なら何をしても驚かない、と。だから、それ以来、男女関係なくすべての人を名字にさん付けで呼ぶように心がけているんです」

 この話だけでは、くせ者が父なのか母なのはそれとも両方なのかは判然としないが、とりあえず言えることは一つ。

「永遠子ちゃんの家は……なんか、大変だね。いろいろ」

 稔は苦笑しながら永遠子の頭をそっとなでた。

「母の心配が杞憂だったらいいのですが、そうでない場合、六原さんにも迷惑をかけてしまうかもしれません。でも、六原さんが望むのなら、頑張ってせめて家の外では、その……み、稔……くん?と呼べるように努力します」

 稔はじっと見上げてくる永遠子に思わずうっと声が詰まる。
 上目遣いでいじらしいことを言うのは破壊力がでかすぎる。間違いなく無意識であるから余計やっかいだ。
 ここはいつもの2人きりの自習室ではない。いつ邪魔者が特攻してくるか分からない雑踏である。
 そんなことは分かっているのだけれど、この時稔はそんな懸念などすべて吹き飛んでいた。

 稔は両手で永遠子を引き寄せると小さな体を腕の中に閉じこめてぎゅっと抱きしめた。

「ゆっくりでいいから」
「……はい」
「待ってる」
「はい」
「でも、あんまり待たせたら無理矢理にでも言わせるから」
「え」
「覚悟してて」
「え、あ、う……は、はい」

 歯切れの悪い返事に稔はくすっと笑った。
 そしてゆっくり体を離して、永遠子の顔をのぞきこもうとした。

「「離れろ」」

 声の主は言うまでもなく。
 稔は先ほど彼らから与えられた痛みが蘇り、条件反射で永遠子の肩にあった両手を天井に向かって挙げた。
 稔の様子に満足したのか、兄たちはすぐに視線を永遠子に向けると両腕を拘束するように掴んだ。

「「永遠子、帰るぞ」」

 有無を言わさぬ口調の兄に、稔は一瞬息をのんだがすぐに我に返って食らいついた。

「待ってください!お兄さん!」
「「誰が”お兄さん”だ!」」

 二人にきっと睨まれて、稔は一瞬ひるみそうになるけれど、ここで引き下がるわけにはいかなかった。

「永さんと久さんが僕を認めたくない気持ちはよく分かります。でも、頭ごなしに反対するのではなく、僕や永遠子ちゃんの話を聞いて下さい!」

「「黙れ!」」
「俺だってお前に言いたいことはいくらでもある!」
「いづれお前とはちゃんと話をつける!」
「「でも、今日は時間がないんだ!」」

 その時になって、稔は兄二人の顔が先ほど永遠子を取り合っていた時の激高して赤みをおびていたものとは違って、どことなく青ざめていることに気づいた。

「永遠子、もう4時半だ」

「あ……」

 永遠子も自分の腕時計を見ると、残念そうな声を漏らす。

「魔王が目覚める」
「閻魔が起きる」

 意味不明で物騒な兄たちのつぶやきに、永遠子は神妙そうにうなずいた。

「六原さん、すみません。あんまり遅くなると父が心配するので今日はこの辺で……」
「え、遅くって……まだ明るいけど」
「永遠子の門限は年間通して常に5時だ」
「以前、永が連れ回したせいで帰宅が6時になった時は警察に捜索願が出される寸前だった」
「あれは久のせいだろう!おかげで1週間永遠子接近禁止令が出されたんだからな!」

 どこのお嬢だ!
 稔は目を見開いて永遠子を見やったが、永遠子は無表情でこくんとうなずく。

「すみません。あの、でも今日は楽しかったです」
「あ、うん、俺も」
「「行くぞ永遠子」」

 稔は連れ去られていく永遠子の後ろ姿をただただ見守ることしかできなかった。

 *

 やっかいな相手に外敵認定された稔。
 しかし、この日の出会いはこれから始まる熾烈な攻防戦の序章でしかなかったのである。