10:ここから始まり(2)
「好き……なの?……顔、が?」
「え、はい。六原さんの顔が好きです」
永遠子の返事を聞くと、稔はつないでいた手を静かに放すと、脱力した様子でうつむいてしまった。
今まで感じたことがない張りつめた空気を醸し出す稔に、永遠子はおそるおそる問いかけた。
「あの……六原さん?どう、したんですか?」
「……だったんだ」
しばらくの沈黙の末にかすかに聞こえた歯切れの悪い小さな声。
聞き取ることができなかった永遠子が「え?」と問い返すと、稔が勢いよく顔を上げ、何かを必死で堪えているような表情で見つめてきた。
「顔、だったんだ。永遠子ちゃんが好きなのは。俺のことじゃなかったんだ」
「何を言ってるんですか?」
「そうなんだろ!?結局永遠子ちゃんも俺の顔が好きなだけだったんだろ!?
俺の中身じゃなくて、顔だけ……」
稔は血走った目で唇を噛み締めた。
尋常でない様子の稔にすっかり萎縮してしまった永遠子はただ茫然と見つめることしかできず、そんな永遠子の姿は稔の目には無関心なように映ってしまい、さらに稔の心をざわつかせた。
「なんだよ……そんなのありかよ……。やっと、俺のことを見てくれる子に出会えたと思えたのに」
何を言っても無表情な永遠子に、稔は勢いを失い悲しげに視線を落とした。
「なんで……」
絞り出すような声に、永遠子は我に返り「六原さん……」と小さく呼びかけた。
しかし、永遠子の声が聞こえているのかいないのか、稔は苦しげに顔をゆがめてその目にはうっすらと涙がにじんでいた。
「悔しいのに……やるせないのに……軽蔑してしまいたいのに……なんで。
なんで、怒りより悲しみの方が大きいんだよ」
稔は、自分をあざ笑うかのようにくっと声を漏らすと、涙の浮かんだ瞳で永遠子を強く見返した。
「なんでもっと早く言ってくれなかったんだよ!なんで出会った時に、せめて俺が告白した時に言ってくれなかったんだよ!あの時だったらまだ間に合ったかもしれないのに、まだ後戻りできたかもしれないのに!こんなに……こんなに好きになっちゃった後じゃ」
言いつのる稔の目から、涙が流れた。
「もう嫌いになれないじゃないか」
稔は、そう吐き出すように言い捨てると、「格好悪っ…」と口の中でつぶやいて涙をぬぐった。
永遠子はこの時頭が混乱して、何も考えられない状態にあったのだけれど、ただ本能で稔に向かって手を伸ばした。
その指先がそっと触れた瞬間、稔は小さく身じろぎするとやんわりと永遠子を拒絶した。
そして、泣き笑いのような顔で永遠子を見つめると「ごめん」と言って立ち上がった。
そして机の横にかけてあった鞄を掴むとそのままドアの方へ歩いて行き、ドアの前で一瞬立ち止まると後ろを向いたままつぶやいた。
「今日は…一緒にいられない。永遠子ちゃんを見たくない」
そして、茫然としたままの永遠子を自習室に残したまま、振り返ることなく去っていった。
*
それから2日、稔は自習室に現れなくなった。
校舎のどこかで見かけても、決まって誰か別の人がそばにいて近づくこともままならない。
永遠子はあれからずっと考えていた。
自分の何が悪かったのか。
一体、何が稔を傷つけてしまったのか。
永遠子はバカではない。
「顔が好き」
その言葉が稔の逆鱗に触れたことは分かっていた。
しかし、それから先が分からなかった。
永遠子は褒めたつもりだったのだ。
永遠子にとっては最大の讃辞のつもりだったのだ。
その言葉がなぜ稔をあのように絶望の淵に突き落としてしまったのか、理解することが出来なかった。
*
あれから3日。
稔は変わらぬ様子で登校した。
この3日間、本当は家に引き籠もってしまいたい気持ちでいっぱいだったのだけど、家にいたら家にいたら余計落ち込んで、もう二度とはい上がれないような気がして、心では悲鳴を上げながらも必死で何喰わぬ顔を作っていた。
それでも、永遠子のクラスの前を通る時はほんの少しだけ顔がこわばった。
いつまでも逃げてはいられない。
そんなことは分かっていた。
でも、怖くて仕方がない。
永遠子に会って、決定的な言葉を言われるのが怖くて仕方がないのだ。
いつのまに、こんなに好きになっていたんだろう。
あの時は、告白した時だったら間に合ったと言ったけれど、今はその自信もない。
多分、あの時だったとしても今と同じようにショックを受けてメタメタに落ち込んでいたと思う。
永遠子のあの無表情な顔を思い出して、稔の胸はきりきりと痛んだ。
「え…?」「おい」「うん、あれって…」「えー、本物?」
ふと周りを見回してみると、なにやらやけにざわついている。
教室附近に来ると、みんな何かを遠巻きに観察している。
なんだろうと思って人影からのぞいてみると、信じられない光景がそこにはあった。
永遠子が一人、稔の教室の前に立っていたのだ。
蝋人形。
永遠子がそう呼ばれる所以は何も極度なポーカーフェイスだけからくるのではない。
彼女は動かないのだ。よっぽどの理由がないかぎり、教室の指定の場所から動かない。
その永遠子が、想定外の場所に立っている。
「よっぽどの理由」の張本人である稔以外の人間にとっては、夜中に動き出す二宮金次郎像並の恐怖体験だ。
稔は棒立ちになったまま、永遠子から目が離せなかった。
永遠子はそんな稔の視線に気づいたのか、ゆっくりと顔を動かすと稔の視線を捉えた。
「六原さん……」
永遠子の小さいけれどはっきりした声に、あたりは再びざわついた。
「え?しゃべった?」「六原って、王子?」「王子と知り合い?」「てか蝋人形ってしゃべるの?」
しゃべるのかと言われれば、人間なのだからしゃべるに決まっている。
授業中、教師に当てられれば解答くらいちゃんと口に出しているのだが、永遠子は話しかけられないかぎり話さない人間で、さらには話しかけられたとしても答えを頭で熟考してからでないと話せない人間でもあり、もっと言うと敢えて永遠子に話しかける人間は稔しかいなかったので、この場にいるほとんどのすべての者にとって、これが永遠子の言葉を初めて耳にした瞬間であった。
「六原さん、わたし、六原さんとちゃんとお話したいんです」
稔は黙ったまま永遠子を見つめた。
「わたし、口下手だし、人付き合いってしたことないから、どうしたらいいのか分からないけど、でも」
永遠子は真顔で自分を見つめる稔に必死に語りかけた。
「でも、このまま自然消滅は嫌です。六原さんがわたしを許せないならそれでもいいんです。でも、弁解だけはさせてくれませんか?六原さんの気持ちだけは聞かせてもらえませんか?お願いします」
そう言うと、永遠子は腰を90度に折り曲げて、からくり人形のように頭を下げた。
永遠子の長い髪がその勢いでふわりと舞い上がり、毛先が足先をなでた。
稔は一瞬だけ泣きそうな顔で永遠子を見つめると、真顔に戻って永遠子に近寄った。
「顔、上げて……」
優しげな稔の声に顔を上げた永遠子の目に映ったのは、困ったように目を細めた永遠子が大好きな綺麗な顔だった。
「今はまだ、辛いんだ……」
「待ちます。六原さんが来てくれるまで、ずっと待ちます」
「うん」
「待ちます」
「分かった」
稔は、永遠子の乱れた髪を一束すくいあげると自然な動きで背中に流した。
そして、小さな声で「ごめんね」とつぶやくと、静かに教室へ消えていった。
*
傍観者たちは2人の謎のやりとりに様々に想像を膨らましていたけれど、その誰一人として、2人がすでに付き合っているという結論にたどり着くこと者はいなかったようである。
|