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 その日、佐倉永遠子が自習室に入ると、六原稔が珍しいことに最前列に座って、机にぐったりと突っ伏していた。

「六原さん…?どうしたんですか?」

 永遠子が少し身をかがませて心配そうな声色で声をかけると、稔はゆっくりと顔を上げ目の前の無表情な顔に向かって力無く微笑んだ。

「……永遠子ちゃん。ちょっと手、貸して」

 永遠子は訝しがりながらも、そっと両手を差し出した。
 すると稔はその手を握って、そのまま自分の頬にそえさせた。

「あぁ……生き返る……」

 稔は目をつぶり幸せそうに声を漏らした。
 永遠子はどうしたものかと困惑しながらも、されるがままになっていた。

「……あの、本当にどうしたんですか?」
「ちょっとね……やっかいなヤツに気に入られちゃって……」

 稔は、今日一日を振り返りながら遠い目でつぶやいた。

 あの野郎、一日中、人にまとわりつきやがって。
 おまけに

「蝋人形ちゃんとの愛の会話を是非、ちょっとだけ、ちょっとだけでいいからのぞかせて!ホント見るだけ、いや見ない、聞くだけでいいから!邪魔とかしないし!俺、マジ、特技は”空気を読む”だから!いい雰囲気になってきたと思ったら気を利かせて立ち去る……努力はする、あーーまって嘘、冗談!絶対立ち去るから!信じて!お願い後生だから!俺に情報プリーズ!」

 などと言ってはカルガモの親子よろしく、しつこく後ろをついてまわるのを、どこに人目があるとも知れないのであまり邪険にも出来ず、あくまで「王子様」のイメージを壊さないようにやんわり断ってはすがりつかれ、皮肉を言っては土下座され、最後には自習室までついてきそうになるのをキレずに耐えた自分のことを本気で偉い!と褒めてやりたいと心の底から思った。

 永遠子と唯一ゆっくり過ごせるオアシスを、自称情報屋なんぞに汚されたくない。
 しかし、相手はタダでは引き下がりそうもない。仕方がないので、稔は背に腹は代えられないと、中学時代付き合っていた彼女の情報と引き替えになんとか諦めてもらわなければならなかった。

 思い返して無意識に険しい顔になっていた稔を見て、永遠子は嫌な予感が頭を駆けめぐった。

「六原さん……やっかいなヤツって…」

 せっかく永遠子と一緒にいるのに、数分間も思考をあの情報屋に奪われてしまった。
 なんてもったいない!
 稔は気持ちを切り替え、そっと永遠子の手を下ろそうとした。
 しかし、永遠子はその離れかけた手を握り直してぎゅっと力を入れた。
 永遠子の急な行動にぎょっとした稔が顔を上げると、永遠子の顔がすぐ近くに迫っていた。
 どうしたんだろう。今日はやけに積極的……
 などと思わず顔がにやけかけたが、その瞳がやけに潤んでいることに気づき、どうもおかしいと思い至った。

「不良の方ですか?」
「は?!」

 驚く稔に、永遠子にさらにせっぱ詰まった声を出す。

「番長ですか?番長に目をつけられたんですね!」
「ちょ、まって何言ってるの?」
「うちの高校の人ですか?うちの高校には番長がいたんですか?怪我はないですか?」

 稔は慌てて立ち上がり、永遠子に握られたままの手を軸にぐるっとまわって机の上に腰掛け、永遠子の視線にあわせた。

「永遠子ちゃん、話が全く見えないんだけど」
「不良の方に絡まれたのではないのですか?」
「どっから出てきたの、その不良って」
「だって……やっかいなヤツに気に入られたって……」

 たまに、永遠子の脳内をのぞいてみたくなることがある。
 一体どんなカオス状態になっているのだろう。
 稔は握られていた手をそっと離して、その手を一つにまとめると外から両手で包み込んだ。

「あのね、永遠子ちゃん。何度も言ってるけど、そういう本や漫画の中の出来事を鵜呑みにしちゃいけないよ」
「これは本や漫画の中の話じゃありません!」

 永遠子は頭をぶんぶんと振ると、必死な口調で訴えた。

「兄は高校時代ガラの悪い方たちに喧嘩を売られては返り討ちにしてきたと聞いています!
それに我が家には昔、父に更生されたという元不良や元番長の方たちが、毎年お正月に挨拶にやってきます!」

「永遠子ちゃんのお兄さんとお父さんって何者!?」

「ただの大学生と会社員です」

 本当かよ!
 稔は思わず顔が引きつった。

「”男なら、んなもん自分たちで適当に話をつけろ”が父の口癖なんですけど、もし六原さん一人ではどうしようもできない状態にあるのでしたら、わたしから父に頼んでみましょうか?父はうちの高校のOBですから、多少顔が利くんです」

 いろんな意味でごめん被る。
 仮に本当に変なヤツに絡まれていたとしても、彼女の父親に対処を願うなんて情けなさすぎる。

 ちなみに、永遠子の父は兄たちには厳格すぎるほど厳しいが、永遠子のことは甘すぎるほど溺愛している。
「もし永遠子に必要以上に接触してくる男がいたら、すぐにお父さんを頼りなさい。とりあえず名前と顔や身体的特徴、できれば住所や親の職業なんかも教えてくれれば万事安心だ」
 などと世間的にはまったく安心できないどころか、却って危険な言動を永遠子の耳に吹き込み続けているのだが、父的には”必要以上どころでない接触”をしている稔が現在野放し状態なのは、永遠子自身が”必要以上”の接触とは認識していないおかげであることを、稔はこの時点では知るよしもない。

 稔は永遠子の手をぎゅっと握り締めると、安心させるように穏やかに微笑んで見せた。

「永遠子ちゃん、大丈夫だよ。うちの高校には俺に絡んでくるような不良はいないし、番長なんてものは多分存在自体してないと思う。さっき言った”やっかいなヤツ”ってのは噂好きのクラスメートのことだから」
「本当ですか?」
「本当だよ。だからお父さんに相談したりとかしなくていいからね」
「……よかった」

 永遠子はほっとして肩の力を抜いた。

「六原さんの綺麗なお顔に傷でもついたらどうしようかと思いました」
「綺麗な顔って……」

 稔が苦笑すると、永遠子は相変わらずの無表情で稔の顔をじっと見つめた。

「わたし、六原さんの顔、好きですから」


 その言葉を聞いた瞬間、稔の顔が凍り付き、表情が消え失せた。