9.5:王子様の実態調査(4)



 どれくらいの時間そうしていたのだろうか。
 ふと気づくとやけに暗くなっていた。

 ――そうだ!王子たちはあれからどうなったんだ!?

 ワタルが慌てて顔を上げると、目の前にその当の本人が微笑を浮かべて立っていた。
 やけに暗いと感じたのは、どうやら稔の影だったらしい。

「何してるの?こんなとこにへたりこんで」

 下から見上げても、稔の顔は少しも崩れるところがない。涼しげで綺麗な顔だ。

「度会?」

 稔の不思議そうな声に、ワタルは我に返ってごまかすようににへらと笑った。

「いやぁ、ちょっと休憩?」
「休憩……面白いことを言うね、度会は」
「え、何が?それより王子こそこんなところで何してんの?一人?」

 ワタルは「よっ」と言って立ち上がるとあたりを見回した。
 他に人の気配はない。佐倉永遠子は帰ってしまったようだ。

「俺がここで誰と何をしていたかなんて……聞かなくてももう知ってるんじゃないの?」

 いつも通りの穏やかな声。

「へ?」

 振り返ると、すぐ後ろに稔の顔がありワタルは驚いて思わず壁際に後ずさった。
 稔の顔は、気味が悪いほど、いつも通りの爽やか笑顔だった。

「今日……朝からずっと誰かの視線を感じてたんだよね」
「へ、へえ…」
「別に見られるのは珍しいことではないし、初めは気にしてなかったんだけど、なんかいつもの視線と種類が違うんだ」
「種類…?」
「そう、いつものは”わたしを見て”とか、”あなたが好き”って熱視線。ようは好意から来ている視線」
「ははは…さすが王子……」
「でも今日のは違うんだよね。今日のはね、”監視”、”観察”」
「……えーと」

 こういう場面に立たされたことは、これまでにもある。
 情報を得るということは、大きなリスクを背負うことなのだ。
 しかし、これまでは何とかうまくしらを通してきた。
 今回もなんとかごまかさなくては――。

「度会」
「は、はい」
「何が目的?」
「……なんのこと?」

 ワタルはにっこり笑ってしらを切った。
 ワタルもまた、ピンチを乗り切るためにいくらでも猫をかぶってきた。
 本気で何も知りません
 という演技はお手の物だった。
 今までも、みんな初めはどんなに疑心に捕らわれていても、ワタルの一貫した「何のことだか分かりません」という態度に徐々に自信を失い、最終的には疑いを撤回してくれていた。
 今回も、稔の疑いを晴らせる自信があった。

 しかし、ワタルはこの時、「王子様熱愛発覚!」という信じがたい秘密を掴んでしまったことで、その影に隠れたもっと大きな秘密に気づいていなかった。
 稔はワタルなど足下にも及ばないほどのプロフェッショナルな猫かぶり。
 他人の猫かぶりを見破れないはずはない。

 稔はワタルのとぼけた様子にも表情をまったく変えることなく、2人の距離をつめてきた。

「さっき、のぞいてたのも、度会だよね?」
「知らないって」
「でも、確かに”誰か”がのぞいてたんだ」
「俺じゃない」
「じゃあ、誰が?」
「知らないって」
「心当たりも?」
「ないって!」
「変だな……」
「何が!?」
「”休憩”をしてたってことは、度会はしばらくここにいたんだろ?」
「そうだよ」
「だったら”心当たり”くらいあってもいいんじゃない?」
「なんでだよ」

 ワタルは焦っていた。これは非常に珍しいことだった。
 押し問答になることはしょっちゅうだけれど、その際いつもはワタルより先に相手が焦れるのだ。
 しかし稔は、ワタルの「知らぬ存ぜぬ」にまったく焦れてこない。
 そのことがワタルの判断力を失わせていた。

「ずっとここにいたんなら、のぞいてた人を見かけたんじゃない?」
「見てない!」
「本当に?」
「本当だって!ここから自習室は見えないんだか…」

 ワタルはしまったという顔をして、思わず口を押さえた。
 そんなワタルを見て、稔はふっと目元を細めた。

「度会は俺がどこにいたのか知らなかったんじゃなかったっけ?」

 ワタルはがっくりうなだれた。
 まさか百戦錬磨のこの情報屋、度会渉が誘導尋問に引っかかるとは!

「度会?返事は?」

 ――人を追いつめる時まで爽やかなのかよ……。

 ワタルは観念して両手を挙げた。

「そうだよ!俺です!俺がのぞきました!」

 開き直ったようなワタルの態度に稔はぷっと吹き出した。

「へぇ。で、目的は?俺をどうしたいの?」
「どうしたいって……」

 別にどうしたいというわけではない。
 単に知りたいだけだったと言ったらさすがの王子も怒るだろうか。
 ちらりと上目遣いで伺うと、稔は特にいらだった様子も見せずにワタルの答えを待っていた。
 ワタルははぁと息を吐いた。

「別に王子の評判を落とそうとか、そういうこと考えてたわけじゃない。単にみんなの王子様の実態が知りたかっただけで」
「実態ねぇ……それで何か分かった?」
「王子が蝋人形とデキてることが分かった」

 稔はワタルの言葉に困った顔で苦笑したが、それを否定しようとはしなかった。

 やはり事実なのだと突きつけられ、確信があったこととは言え、こうして本人を前にするとどうしても違和感がぬぐい去れない。
 顔、頭、運動神経、人柄、すべてに恵まれ、恋人なんか選びたい放題だろうに、なぜよりよって蝋人形。あんな会話も表情も感情もない相手といて何が楽しいのか。
 彼女の魅力なんて、ミステリアスで整った顔くらいしか――。

 そこまで考えて、ワタルははっとした。
 入学早々、押しも押されぬ人気者にのぼりつめた王子様。その彼に今まで浮いた噂が一つもなかったその理由。

 面食い。

 彼は”面食い”だと公言していたのだ。
 ワタルもその時のことをはっきり覚えている。
 どんな子がタイプかと言われて、稔はあの爽やかな笑顔でこう言ったのだ。
「俺、実はすっごい面食いなんだよね。だから彼女にするなら”とびきり”可愛い子がいいな」
 こんなことを言われたら、どうだろう。
 どんなに自信過剰な女でも、自分で自分を「とびきり可愛い」とはなかなか思えない。
 また、もし仮にそんな過剰すぎる自信を持っていたとしても、稔にモーションをかけるということは、自分の過剰な自信をさらけ出すことになってしまう。
「あの子自分のこと、とびきり可愛いって思ってるんだぁ」
 などと女生徒たちの間で噂にでもなれば、学校生活もままならない。

 だから稔には恋人はいなかった。
 その彼が選んだ恋人、佐倉永遠子。
 いや、そんな彼だからこそ、佐倉永遠子は選ばれたのだ。
 不気味なまでのポーカーフェイスで蝋人形と恐れられているせいで、今まで誰の口からも指摘されることはなかったが、佐倉永遠子は面食いな王子様の目にとまる理由があった。
 佐倉永遠子は学内を見渡しても他に例のないほど、類い希なる美少女だったのだ。

 この事実は――もし知られたら大変なことになる。

「心配しなくても、誰にも言ったりしないし」

 ワタルは、息を詰めて真っ直ぐに稔の瞳を射抜いた。

「もしこれがバレたら、王子の評判はガタ落ちすることになる」

 稔は一瞬きょとんとした顔をしたがすぐにいつもの笑顔に戻ると「なぜ?」とささやいた。

「だって……蝋人形を選ぶなんて、王子はかなり異常な面食いってことになるじゃないか!
みんな幻滅するよ。いくら可愛い子がいいからって、まさか、本当に”顔”だけ可愛い子を選ぶなんて……そんなの王子のイメージじゃない」

 その瞬間、稔の笑顔が、わずかに、ほんのわずかに変化した。

「顔”だけ”可愛い子?」

 ワタルは稔の変化に気づいていたけれど、それを図星をさされて困惑しているのだと解釈した。

「そうだよ!だって、蝋人形だぜ?あんな無表情で無感情な子、となりに置いて眺めるくらいしか楽しみようがないじゃないか!これがバレたら王子はお人形遊びが好きな変態だなんて噂が立ってもおかしくない」

 ――――バン!

 ワタルは、しばらく何が起こったのか分からなかった。
 壁に押しつけられた顔の横には綺麗な手のこぶしが、目の前には稔のさらさらとした茶色の髪が。
 どうやら稔が、ワタルを閉じこめるように壁に両手を叩きつけ、そのままの体勢で下を向いているらしい。

「お、王子?」

 ワタルがおそるおそる声をかけると、稔は一瞬鼻をならすと、くっくっと押し殺した笑い声を漏らした。

「人間ってのは都合のいい生き物だよな」

 稔の声は、いつのも声と違っていた。

「永遠子ちゃんの魅力なんて、俺だけが知っていればいい……なんて、ちょっと前まで考えていたのに」

 そう言って顔を上げた稔は、笑っていた。

「今は、世界中に永遠子ちゃんの素晴らしさを見せつけたい」

 それはそれは形容しがたいほど邪悪さを秘めた表情で。
 世界を凍り付かせるような、凍えるような冷たい笑み。あたかも堕天使のように。

「別に俺の評判が地に落ちようと、変態と言われようがそんなことはどうでもいいけど、永遠子ちゃんを侮蔑されるのは許せない」

 稔は右手を壁から離すと、ワタルのあごを掴んで上を向かせた。

「永遠子ちゃんが”顔だけ”?”無感情”?”眺めるくらいしか楽しみようがない”?」

 稔は「はっ」と吐き捨てるように笑うと、鬼すら震え上がらせるような冷たい表情で睨み付けた。

「その言葉、死んでも永遠子ちゃん本人の耳に入れたりするなよ!」
「な……なんで」
「なんで?そんなもの決まってるだろ!永遠子ちゃんが傷つくからだよ!」
「でも……」
「無感情な蝋人形だから傷つかないってか?ふざけるなっ!
永遠子ちゃんは人形じゃない、人間だ!人間だったら、あんなひどい言葉を言われたら傷つくに決まってるだろ。永遠子ちゃんは無表情だけど無感情じゃないんだ!無表情な代わりに、人よりよっぽど感情豊かなんだ!」

 ワタルは、稔の鋭い視線と剣幕、さらにはあごに添えられた手に加わる力に、激しい恐怖心を感じ、ふるえる声で「分かった……」と答えた。
 稔はしばらく胡散臭そうな目でワタルを眺めていたが、ワタルが本気でおびえていると分かると、あごにそえられていた手をそっと離し、ついでに壁につけたままだった左手も離した。
 そして、「そう」とつぶやくと目を細めて優しく微笑んだ。
 ワタルは先ほどまでの表情とのあまりの落差に呆然としたまま
「二重人格……?」
 と小さな声でつぶやいた。
 稔はその言葉に思わずふっと吹き出すと、面白そうににやっと微笑んだ。

「いやだな。あれは解離性同一性障害って言って、虐待とかトラウマが原因でなる病気のことだろ。
俺のは病気じゃないよ。俺はただの猫かぶり」
「ね、猫かぶり…?」
「そう。いやあ、たいしたもんだよ、度会。俺から猫をはがさせるなんて。永遠子ちゃんを除けばお前が初めてだ」
「蝋にんぎょ……いや、佐倉、さんは知ってるんだ。王子の猫かぶりを」
「当然だろ。彼女なんだから」

 稔はそう答えたあと少しだけ考え込んで、「いや、違うな」とつぶやいた。

「俺の猫をはがしてくれたから、猫がはがれた俺を受け止めてくれたから、好きになったのかな」

 そう言うと、稔は照れたような困ったような何とも言えない表情で笑って見せた。
 その笑顔はこれまでワタルが見た稔の表情の中で、もっとも人間らしい、いい顔だった。

「王子は面食いじゃなかったのか……」
「違げえよ。あれは虫除け。ああ言っておけばうるさいのが寄ってこないし」
「うわっ!マジかよ……王子のイメージが……」
「はぁ、まいったな。永遠子ちゃん以外にバラす気なかったのに」

 そう言って、がしがしと頭をかく稔は、爽やか好青年な王子様なんかではなく、邪悪な笑みを浮かべた美貌の堕天使なんかでもなく、年相応の普通の高校生の姿だった。
 ワタルは驚きで目が丸くなった。そして、好奇心で気分が高揚して、知らず知らずににかぁと大きく口をあけて満面の笑みを浮かべていた。
 稔はその顔を見て一瞬眉をしかめると、天井を見上げ諦めたように大きく息を吐いた。

「いいよ。言いたきゃ言えよ。王子様の正体は、実は猫をかぶった普通の男子高校生で、彼女の悪口を言われたくらいでムキになってクラスメートを壁に叩きつけるような短気者です、って」

 自嘲するように言う稔の言葉に、ワタルは「何を言うか」とばかりに首をぶんぶんと大きく横にふった。

「言わない!言うわけないっしょ、こんな面白いこと!公にされない秘密を知ってるってことに意味があるのに、バラしちゃったら楽しさ半減どころか完全消去じゃん!言わない、絶対言わない!言えと言われても、俺は絶対言わないから!」

 稔は勢いづくワタルに微妙に顔を引きつらせた。

「お前……変わってるな」
「いっやぁ、王子ほどじゃありませんって!」

 こんなに楽しいことはないとばかりに、にっこにっこと笑顔を振りまくワタルに、稔は拍子抜けする一方で、ほんの少し肩の荷が下りるような気持ちになった。

「そのかわり、これからも王子の観察は続けさせてもらうから!」

 にかっと歯を見せて笑うワタルに、稔は一度おろした荷をもう一度倍にして背負わされたような錯覚を感じた。

「は?ヤダよ。うざい」
「いやいや、邪魔はしないから絶対。王子の蝋人形ちゃんには絶対近寄らないし。
遠くから2人のラブロマンスをこっそり観察させてもらうだけ。害はない!」
「見られてることがすぐさま害だ!バラしてもいいから観察すんな!」
「いやだって!観察は俺のライフワーク!殺されようとも絶対やめない!」
「迷惑だ!!」

 その日、 王子の悲痛な叫び声が、遠くグランドまで響き渡っていたとかいないとか――。

 *

 情報屋、度会渉。
 あくまで「自称」。
 まもなく彼は、他称:王子様の腰巾着、として知られるようになる。