10:ここから始まり(3)


 放課後、永遠子は死刑台に立たされた死刑囚のような気持ちで自習室のドアをくぐった。
 部屋の中に、待ち望む人物の姿はなかった。
 永遠子は入り口で立ち止まり、誰もいない教室をじっくりと見回した。
 そして、しばし考えた末、あの日稔が座っていた、前列ドア寄りの席にかばんを下ろした。

 今日は来てくれないかもしれない。
 来週も来てくれないかもしれない。
 もしかしたら、1ヶ月経っても、来てくれないかもしれない。

 でも、稔は「分かった」と言ってくれた。
 そして優しく髪をすいてくれた。
 きっと稔は来る。
 今日じゃなくても、明日じゃなくても、自分が待っているかぎりきっと来てくれる。
 永遠子はそう信じて、稔を待つ覚悟を決めた。

 *

 音はなく、ただ人の気配を感じて顔を上げたのは、それから1時間以上たってからだった。

「六原さん……!」

 永遠子は慌てて立ち上がった。
 稔はそんな永遠子を手で制すると、困ったように苦笑を浮かべて隣の席にかばんを置き、椅子を引いて横向きに向かい合うように座った。

「永遠子ちゃんも座って」
「……はい」

 2人の間に沈黙がおりた。
 永遠子は、稔が今日、こうして自分の前に現れてくれたことに感極まって、まだ実感が出来ず心を静めるのに精一杯であった。
 稔は、実は永遠子が自習室に入る前からこのあたりをうろうろとしていたのだけれど、中に入る勇気が出せず1時間以上ずっと悶々とし続けていた。ようやく入る決心をして飛び込んだはいいけれど、永遠子があの日、自分がいた席に座っていたことで、あの日の記憶が鮮明に甦り、動揺と困惑と恐怖がぶり返していた。

 沈黙を先に破ったのは稔の方だった。

「永遠子ちゃんは、つまり面食いなんだ?」

 いきなりの核心に、一瞬たじろぎながらも、嘘を付けない、さらにはそれを悪いことだと思っていない永遠子はまっすぐな瞳でうなずいた。

「そっか……」

 そうつぶやいて目を伏せる稔に永遠子は釘付けになり、ぎゅっと胸が締め付けられた。
 こんなに切ない顔を見たのは生まれて初めてだった。
 顔を見ただけで、痛みが伝わってきて自分まで苦しくなったのは初めてだった。

「六原さん。わたしは顔に限らず”美しい”ものが好きなんです。美しいものは見ているわたしをとても幸せな気持ちにさせてくれます。”美しい”ことはよいことだと、この15年間思って生きてきました」

 稔は下を向いたまま、静かに耳を傾けた。

「わたしは、初めて会ったときから六原さんは”美しい”人だと思ってきました。
その気持ちは今も変わりません。
いえ、多分、初めて会ったときよりもっと、六原さんは”美しい”と思ってます」

 稔は泣きそうな表情で顔を上げゆっくり横に振った。

「永遠子ちゃん……もうやめて」
「違うんです!六原さんを傷つけたいわけじゃないんです。お願いします、最後まで聞いてください」

 すがるような瞳で見つめる稔を、永遠子はまっすぐ射止める。

「分からないんです。なぜ、顔が好きだと言われてそんなにショックを受けるのか、わたしには分かりません。教えてください。”美しい”ものが好きなわたしは変ですか?そんなわたしが憎いですか?」

 永遠子は嘘やごまかし、それどころか遠回しな言葉さえ言えない人間であることを稔は知っていた。
 裏を読むこともできない真っ直ぐで純粋な言葉が、こんなにも残酷なのかと稔は苦笑した。

「顔が好きってことは……もし俺と同じ顔をした人間がいたら、永遠子ちゃんはそいつのことも好きになるってことだろ?」
「いいえ」

 永遠子の即答に、稔は混乱する

「なんで!だってそうじゃないか!美しければいいんだろ?顔なんだろ?顔だけなんだろ?」

「ま、待ってください、六原さん。わたし、そこが分からないんです。顔”だけ”ってどういうことですか?」

「言葉どおりの意味だよ!顔なんて……そんなもの、俺が持って生まれたものじゃないか!俺が努力して手に入れたものじゃない!単なる親の遺伝子の奇跡でしかないじゃないか!
もし俺がこの顔じゃなかったら、永遠子ちゃんは俺のこと好きでもなんでもないってことだろ」

 稔の叫びに、永遠子はようやく2人の間にある認識の違いに気づいた。
 大きな誤解だった。
 絶対に正さなければならない大きな大きな誤解だった。
 永遠子は、稔が膝の上で握りしめていた手にそっと自分の手を重ねた。

「違います、六原さん。顔は遺伝子の奇跡なんかじゃありません。顔はその人が作るものです。
六原さんと同じ顔をした人なんて、この世に存在するわけないんです。そんな仮定は無意味です。
だからさっきの質問に”いいえ”と答えたんです」

 稔は頼りなさげな表情で、永遠子を見つめ返した。

「どういうこと?」

「顔は造りじゃありません。顔は人の歴史です。
愛情をいっぱい受けて育った人は自然と優しい顔になります。
苦難を乗り越え何かを成し遂げた人は、充実した顔になります。
顔は自家製なんですよ。経験や感情によって変わっていくものなんです。
その証拠に、わたしの兄は一卵性の双子で顔の造りは一緒ですが、わたしは同じ顔だとは思っていません。双子でも、まったく同じ経験をすることは不可能だから。まったく同じ感情だけを抱き続けることは不可能だから」

 永遠子は重ねていた稔の手をぎゅっとにぎった。

「六原さん、”美しい”顔っていうのは、何も顔の造りのことだけを言うのではないですよ。
確かに顔の造りそのものが整っている人はいます。
でも、整っている顔が必ずしも”美しい”とは限りません。
その人の経験や感情、性格、すべて含めて『顔』なんです」

 永遠子は、稔のこぶしから少しずつ力が抜けていくのを感じた。

「だから、顔”だけ”見る、なんてこと不可能です。反対に顔だけ見ないことも不可能なんです。
目が見えているわたしたちには、顔”だけ”を見ることも、見ないことも無理なんです。
顔も含めて”その人”だから。顔の向こうにある中身も自然と見えてしまうから。
だから、六原さんはその顔を含めて六原さんなんですよ」

 稔は熱くこみ上げてくるものに、もはや顔を上げていることができず、重なり合う手をじっと見つめた。

「六原さん。ご自分の顔を否定しないで下さい。
六原さんは、その顔あっての中身じゃないですか。中身あってのその顔じゃないですか。
六原さんの顔と中身をどうして切り離さなければならないのですか?」

稔は、長年自分の心を縛り付けていた鎖にひびが入る音が聞こえた。

「わたしは六原さんの顔が好きです。
王子様と呼ばれる爽やかだけどどこか突き放した笑顔も好きでした。
でも、ここで六原さんと知り合って、六原さんの知らなかった顔をたくさん見て、もっともっと好きになったんです。
ぼうと考え事をして窓を眺める顔も、わたしをからかう時の意地悪な笑顔も、驚き慌てる顔も、困ったように眉を下げて小さく微笑む顔も、全部、とても綺麗で大好きです」

 永遠子は両手で稔のこぶしを包み込むと、首を傾げて稔の顔を覗き込んだ。

「でも、わたしのつまらない話を面白そうに聞いてくれる時の、楽しそうで優しい笑顔が、何よりも一番大好きです」


 その瞬間――

 稔の心を縛っていた鎖が崩壊した。


 稔は素早く立ち上がると、永遠子を勢いよく引き寄せて力の限り抱きしめた。
 そして、その肩口に顔を押し当てると自然とぼろぼろと涙がこぼれてきた。

「…永遠子ちゃん」
「はい」
「永遠子ちゃん」
「はい」
「永遠子ちゃん…」

 稔はただただ何度も永遠子の名前を繰り返した。
 そして、永遠子はそれに焦れることもなく律儀に何度でも返事をした。


 人間しょせん顔がすべてなのだ。

 ――そう植え付けようとする人間が過去にいた。

 顔しか見ないヤツは底が浅い人間なんだ。

 ――そう信じて生きてきた。

 その考えを、永遠子は根本から覆した。


 そして何より、永遠子が一番好きだと言った顔。
 それは、稔が永遠子を「愛しい」と思っている時の顔だった。

 永遠子が稔を変えたのだ。
 永遠子の存在が、永遠子を想う心が、稔の顔を作ったのだ。

 永遠子の言葉は、稔のコンプレックスを消すと同時に永遠子への想いを再認識させてくれた。
 稔は気づいた。
 永遠子の好意が自分自身にないのではないかということ以上に、自分の永遠子への好意が否定されることが恐かったのだと。

「永遠子ちゃん」
「はい」

 稔は少しだけ力を緩めると、下から見上げてくる永遠子を泣き笑いで見おろした。


 永遠子の顔は無表情だけど、それをこんなに愛おしいと想えるのは、無表情の裏にある無垢や無邪気さが、永遠子が築いてきた歴史であることを知っているからだったのか、と稔は不意に思い至った。

「ありがとう」
「はい」
「俺も、永遠子ちゃんのこの顔も含めて、永遠子ちゃん全部が大好きだ」
「はい」
「格好悪いとこ見せてごめん」
「いいえ」
「格好悪くてもいい?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「よかった」
「六原さんも、わたしが可愛くなくてもいいですか?」
「うーん、それは無理かな」
「え」

 真顔で絶句する永遠子に、稔は微笑んだ。久々に心から微笑んだ。

「だって、永遠子ちゃんが可愛くない瞬間なんて存在しないから」

 さっきとは違った意味で絶句する永遠子はほんのわずかに照れくさそうで、それがたまらなく愛しくて。稔は大切な壊れやすいものを包み込むように、今度は優しく永遠子を抱きしめた。

「永遠子ちゃん」
「…はい」
「好き」
「はい」
「すごく、好き」
「はい」
「大好き」
「はい」
「何度言っても足りないくらい」
「はい…でも、あの」
「何?」
「………恥ずかしいです」

 稔の胸に顔をうずめる永遠子の耳は真っ赤にそまっており、稔はその耳に唇を寄せた。

「可愛い……」

 永遠子の耳はますます赤くなる。
 稔はおかしさと愛しさで無意識に顔がゆるんでいく。

「約束、やぶってもいい?」
「……約束?」
「”ファーストキスは初デートで”」

 楽しそうな声でささやく言葉に永遠子は思わず硬直し、自分を抱きしめている稔の腕をぎゅっと握った。稔はその手に一瞬視線を流すと、もう一度耳元で甘くささやいた。

「ダメ?」

 握られた腕に力が加わるのを感じた。

「ダメ……」

 小さな声がわずかにかすれる。

「……じゃない、です」

 その言葉を聞くやいなや、稔は両手で永遠子の頬を包み込むと、目を閉じて軽くかすめるように唇を落とした。
 あっという間に通り過ぎた春風のような口づけに、永遠子はぱちくりと二度まばたきをした。
 そんな永遠子に稔はふわりと微笑む。

「ごちそうさまでした」
「あ……いいえ、どういたしまして?」
「どうだった?ファーストキスの感想は」
「早すぎて、よく分からなかったです」
「そう……」

 稔は悪戯が成功した子どものように、にやりと楽しげに微笑んで

「じゃあ、今度はじっくり味わって?」

 とささやくと、再び2人の唇が重なった。
 そしてしばらく、その影は重なり続けていた。

 *

 必然的に出会った2人はゆっくり近づき、急激に進展し、そして一つの誤解が突如危機を招いたけれど、これから長い人生をともに歩むことになる蝋人形と王子様の本当の始まりは、この日、この瞬間だったのかもしれません。

第一部:自習室編(了)