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【3章 ジュリエットの気持ち】


 3-(3)


 音出しを終え、わたしは楽器をおろした。
 明るい美砂の、滅多に聞いたことのない冷たい声がよみがえる。

 ちょっと言い過ぎたかな。

 さすがに罪悪感を感じる。
 時計を見るとそろそろ合奏の準備を始める時間だ。
 合奏が始まる前に謝ってしまおう。
 わたしは同じパートの後輩に指示を出して、廊下へ出た。
 美砂はいつも第2音楽室のピアノ脇のところで練習している。
 ドアから顔を覗かせてピアノの方へ目をやった。
 ところが、指定の場所に美砂はいなかった。

「あれ……?」
 きょろきょろと教室を見渡していると、誰かに肩を叩かれた。
 振り返ると皆子がむすっとした表情で立っていた。

「美砂だったら帰ったよ」
「帰った?何で、聞いてないよ。本番前なのに!」

 わたしが声を荒らげると、皆子は眉間にしわをよせた。

「つくよん、ちょっとこっち来て」

 皆子はわたしの袖を掴むと、階段の踊り場へ引っ張っていった。


「つくよん、いい加減にしてくれない?なにをいらいらしてるのか知らないけど、本気で迷惑なんだけど」
 わたしは一瞬うっとつまった。
「たしかにさっきは言い過ぎたと思ってるよ。反省してるから、謝りに来たんだよ。
でも、美砂もいくら怒ったからって帰ることないじゃん。本番前で今は一瞬一秒だって無駄にできない時なのに。勝手に休まれたらそれこそ迷惑じゃん」
 わたしの言葉に皆子は心底呆れたという風に首を振った。
「本気で言ってる?美砂がそんなことで帰ると本気で思ってるの。だとしたら友達失格だね」

 普段は割とのほほんとしている皆子だけど、怒ると別人のように冷たくなる。
 なぜ皆子がこんなに怒っているのか分からない。
 わたしが困惑した表情を見せると、皆子は軽蔑しきった目でわたしを見た。

「コトちゃんのこと、聞いてない?」
「コトちゃん?」

 コトちゃんとは美砂の10歳年下の弟だ。本名は「真言」と書いてマコトくん。現在5歳。
 人なつっこくて、愛嬌のある笑顔がとびきり可愛い、美砂自慢の弟だ。
 目に入れても痛くないほど可愛がっていて、その溺愛ぶりは端で見ているこっちが恥ずかしくなるくらいだ。
 自分の命の次に大切なものはコトちゃんだと、豪語してはばからない。
 そのコトちゃんがどうかしたのだろうか。

「コトちゃん、昨日自転車にぶつかって骨折したの。しばらく入院だって」
「えっ」
「だから今日元気なかったんだよ。朝からずっと一緒にいたのに気付かなかったの?」

 気付かなかった。
 言われてみれば、どこか落ち着きがなかったような気もする。

「……言ってくれればよかったのに。そしたら、わたしあんなこと言わなかったのに」
 皆子がふっと鼻で笑った。
「言える訳ないっしょ、あんな調子のつくよんに。第一、聞く耳を持った?言わなくてもちゃんと見てれば気付いたはずだよ」
 皆子の声はどんどん鋭くなっていく。

「つくよんは自分のことしか考えてないから、他の人のことが見えないんだよ。
つくよんが何か悩んでるのは知ってる。でも、自分が不幸だったら他の人に当たってもいいの?悩んでるなら相談すればいいでしょ。してくれたらわたしも美砂も、りえちゃんだって相談に乗るよ。頼りないかもしれないけど、それくらいのことしてあげるつもりだよ」

 わたしは思わず後ずさりそうになった。
 そんなわたしに、皆子はさらに語気を強めた。

「でもつくよんは何も言わない。聞いても教えてくれない。
だったらわたしたちはどうしたらいいの?
ただつくよんが当たり散らすままに堪え忍んでればいいの?
だとしたらわたしたちってつくよんの何?友達じゃないの?
つくよんはただ顔色伺って機嫌取ってるような友達がほしかったの?」

 目の前がぼんやりとかすんできた。
 視線を下にそらすと、皆子の握りしめた拳がかすかに震えていた。

「つくよんは昔からそう。勝手に一人で落ち込んで、悪い方へ悪い方へばっかり考えて。頼ってこないくせに、助けてあげないとこの世で一番不幸な人間ですって顔するんだよ。
世の中ね、つくよんより不幸な人なんて、いっぱいいるんだよ。人生バラ色で辛い思いしたことないなんて人間、一人もいないの。みんな不安とか焦りとか感じながら、辛くても、それでもなんとか頑張って生きてるんだよ。一人で解決できない時は人に頼って、助けてもらって乗り越えていくんだよ。
つくよんがどうしても人に頼りたくないならいいよ。
でも、頼らないんだったら不幸を人にばらまかないで。
間違っても、今の美砂みたいに辛い思いしてる人にまで当たったりしないで」

 返す言葉もなかった。皆子の言うとおりだ。
 わたしは自分のことしか考えてなかった。
 美砂の様子がおかしかったことなんかちっとも気付かなかったし、気付こうともしなかった。
 原田のことがあって気が立ってたのは確かだけど、そんなの言い訳にならない。
 人の気持ちを考える、そんな当たり前のことをわたしは忘れていた。


「ごめん……」

 消え去りそうなほど小さな声でつぶやいた。皆子は腕組みをして、ふうと息を吐いた。
「わたしに謝られてもね。美砂に言ってよ」
 わたしは首を振った。
「美砂には謝る。でも、皆子にも謝る。ごめん。わたしが自分勝手だった」

 こういう風に、率直にわたしを責めてくれる皆子を、とてもありがたいと思った。
 わたしだったら遠慮してしまって、嫌だと思ってもそれをはっきり相手に伝えることが出来ないけど、皆子は悪いところは悪い、いいところはいいとはっきり言ってくれる。自分では気付かないような自分の悪いところを、ずばっと指摘してくれる。

 正直、悪いところを指摘されたら、ショックだし、気分が悪い。
 でも、それが皆子の優しさなんだと思う。

 嫌なところに目をつぶって、自分が我慢をすれば、その時はいいかもしれない。
 でも、それでは人は変わらない。きっと同じことを繰り返して、今度はもっとひどく他人を傷つけてしまうかもしれない。
 現に、わたしは皆子に言われなかったらコトちゃんのことなんかまったく気付かず、美砂に辛く当たったままだったと思う。

 皆子がいてくれてよかった。

 わたしは心の底からそう思った。
 わたしがまっすぐ皆子の目を見つめると、皆子はもう一度大きく息を吐いた。
 そして、呆れたように微笑んだ。

 

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