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【1章 ジュリエットのため息】


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 憂鬱、意気消沈、不愉快、腹立たしい、恨めしい、辛い、嫌だ……。
 うーん、どれも違う。今のこの気持ちを言い表すには、わたしの語彙は少なすぎる。
 はあ、あ……。
 ついてない。まったくもってついてない。
 今朝、美砂(みすな)に「今日の牡牛座、運勢最悪だよ」と言われた時は聞き流しちゃったけど、こんなことならラッキーカラーやラッキーアイテムもちゃんと聞いておけばよかった。
 普段「占いなんてくだらない」ってバカにしてきたツケが回ってきたのかな……。
 あぁ、残りの人生すべての幸運と引き替えでもいいから、今日の悪運を取り消したい。
 はああー……。

「6回目」
 突然、頭の上で声がして、わたしは思わずびくっと肩をふるわせた。
 顔を上げると美砂がにやにや笑いながら立っていた。
「何?」
 上目遣いに睨みつけると、美砂はわたしの目と目の間にずばっと人差し指を突きつけた。
「ため息の数。今ので6回目。部室に入ってから5分間に6回だよ、6回」
 美砂はわざとらしく首を振るとわたしの後ろにまわって両手をわたしの肩においた。
「あのね、気持ちは分かるけど、そんなにため息ばっかついてると幸せが逃げちゃうぞ。ただでさえ今日は運勢最悪なんだから」
 わたしはムッとして手を振り払った。
 いつもは気にならない美砂の軽いノリが、今日はなんだかやけに癇に障る。
「余計なお世話です」
「つくよん、暗い。いつまで落ち込んでるつもり?HR終わってからずっとだよ」
「つ・く・よ」
 わたしは語気を強めて訂正した。


 わたしの本名は田中月夜。「月夜」と書いて「つくよ」と読む。
 まず間違いなく、一発では正しく読んでもらえない。
 『万葉集』の研究をしている大学教授の父にとっては慣れ親しんだ言葉であっても、一般人には難易度の高すぎる読み方だ。わたしだって、自分の名前じゃなかったら絶対読めない。
 それでも、チビ、色白、一重まぶた、と生まれる時代を間違えたんじゃないかと疑いたくなるような成長をとげた自分の容姿にはお似合いな名前だ。「エリカ」とか「ユリナ」とか変にこじゃれた名前をつけなかった父の先見の明を真面目に褒め称えたい。

 美砂はそんなわたしのことを今年になって、それまでの「つくよちゃん」と言う呼び方を改めて、突然「つくよん」なんて呼び出した。変なあだ名をつけるのにはまっているらしい。
 語尾に「ん」をつけただけで一気にファンシーな響きに早変わりだ。
 「エリカ」と同じくらいガラじゃないからやめてほしいと常々言っているのだけど……。


「だいたいさ、つくよん」

 わたしの訴えは無視ですか。
 美砂は基本的に人の話を聞かない。自分の話したいことを自分の話したい時に話す。

「たかだか学祭の劇じゃん。そんなに主役がヤなの?小学校の時は、自ら立候補して主役やってたじゃん」
 美砂のすねた口調に、わたしは言いよどんで少し視線を落とした。
「……別に、主役が嫌な訳じゃ」


「あれ、まだいたの?」

 顔を上げて声の方を見ると、開けっ放しだった部室のドアから色白の丸顔がのぞいていた。
 部長の瀬尾皆子だ。

「完全下校5分前だよ。鍵締めるから早く出て出て」

 わたしは「完全下校」の一言で反射的に立ち上がった。
 吹奏楽部の副部長として、普段後輩たちに、門限を守るよう口を酸っぱくして言っている手前、わたし自らがルールを破る訳にはいかない。どんなに落ち込んでいようと、思わず動きが素早くなるのは副部長の悲しい性だ。


「なんか、つくよん元気ないね、何かあった?」

 鍵をかけながら、皆子が言った。
 美砂に影響されてか、最近は皆子までわたしを「つくよん」と呼ぶ。

「だから、その呼び方やめてったら」
「なんでえ?可愛いじゃん」

 美砂が反論する。て言うか、さっきのわたしの訴えは本当に聞いてなかったんかい。

「可愛くない。そもそもガラじゃない」
「そんなことないって、似合ってるよお。あたしが保証する」

 美砂はそう言って目をきらきらさせながら力一杯うなずいた。
 わたしはそれを冷めた目で見返した。
 だいだい、美砂は自分も名字の「那須」で呼ばれたら怒るくせに、人のことは平気で嫌がる名前で呼ぶんだから。
 しかも困ったことに、本人にはまったく悪気がないから、余計始末が悪い。
 美砂が「似合っている」と言うなら、それは本当に「似合っている」と思っているのだ。
 似合っているんだから、その名前で呼んで何が悪い。
 美砂の哲学ではそう言うことになるらしい。

「もういい、好きにして」
 わたしは、ぼそっと言い捨てて歩き出した。
 にこにこと笑いながら美砂とのやりとりを見守っていた皆子は、
「あれ、今日は反論が少ない!変なの。やっぱりなんかあった?」
 と言って可愛らしく小首をかしげる。
 そして何を思い立ったのか「あっ!」と叫ぶと、わたしの前に回り込んできた。

「分かった、学祭の劇でしょ!なになに、1組何になったの?もしかして、つくよん主役?」
「企業秘密です」
 美砂は1秒も間をあけず即答した。


 皆子はその後も、しばらく、「ずるい」「教えろ」と騒いでいたけれど、わたしも美砂も相手にしなかった。
 ぶつぶつ文句を言いながら、鍵を返しに職員室に向かう皆子の背中を見送りながら、わたしは盛大なため息をついた。
 いやだ、本当に、癖になってる。
 美砂が横で苦笑しているのが分かった。
 横を向くと、美砂は青い空を見上げていた。
 美砂の短いくせっ毛がゆるやかな風に少しそよぐ。
 7月半ばとは言え、わたしたちが住んでいる札幌は、夕方6時にもなると風がひんやりとして、半袖だと少し寒い。

「ついてなかったねえ」

 空を見上げたまま、美砂がぽつりとつぶやいた。
 その口調がやけにしんみりしていたから、なんだか切なくなってしまった。

「うん、ついてなかった」

 いつもは、まるで競歩をしているかのように歩調の速いわたしたちだけど、今日はなんだか足取りが重い。

「原田はさ」

 唐突に美砂が口にした名前にわたしはどきっとした。

「つくよんが思ってるほど、ヤなヤツじゃないんだよ」

 わたしは黙って歩き続けた。
 言われなくても、そんなことは分かっている。
 だけど、美砂は分かっていない。理屈ではないということを。
 頭では分かっていても、感情が追いつかないことは、世の中には多々ある。
 わたしにとって「原田陽介」とは、頭で考えるより先に体が拒否反応を起こしてしまう、そんな存在だった。
 今日のHRでのあの瞬間を、わたしはきっと一生忘れない。