閑話「王子様と村人A」(2)



「ただいま」

 間近に迫った学祭の準備から帰ってきた六原好は鞄を肩にかけたままリビングのドアを少し開け声をかけた。六原家では、帰宅後リビングに顔を出さずに自室にこもることは禁止されているからだ。

「おかえり〜」

 弟の稔が長い足をもてあますように投げ出して、ソファに寝ころんだまま返事をした。
 稔は土曜だと言うのに出かけもせずに本を読んでいたらしい。
 珍しいこともあるものだ。
 稔が本を読んでいる姿なんてここ数年かぞえられる程度にしかなかったはずだ。
 しかも読みながらなにやら薄笑いを浮かべているし。

 ――キモイ……。
 この子、最近絶対おかしいけど大丈夫か?

 好は眉間にしわを寄せながらも、母親がまだ帰っていないことを確認するとそのままそっとドアを閉じた。そして足は一旦部屋に向かいかけたが、ふとさっき目にうつったものが脳裏に浮かび、ぴたりと立ち止まった。

 ――今、あいつが読んでた本って……

 好は体を急転回させるとドアを乱暴に開いてリビングを直進し、稔に飛びかかってその手にあった本を奪いとった。

「ちょ、何すんだよ!」

 突然の姉の暴挙に稔は抗議の声を上げたが、好は奪った本の表紙をまじまじと見つめ、その顔はみるみるうちに真っ赤になっていく。

「それはこっちの台詞よ!」

 好は青筋を立て、真っ赤な顔、充血した目で怒鳴り声を上げた。

「え、何?」
「あんた、あたしの部屋を漁ったでしょ!」
「はぁ?」
「この本!『なみだ色』!これは絶対見つからないようにクローゼットの下着入れの奥の奥に隠しておいたのよ!姉の部屋に無断で入るだけで罪深いってのに、クローゼット!しかも下着入れを漁るとか……このバカ!アホ!変態!ただの猫かぶりだと思ってたのに、いつのまにそんなろくでなしになってたのよ!死んでわびなさい!!」

 激高する姉を、弟は初めぽかんと見つめていたが、最後の言葉に盛大に「ぶはっ」と吹き出した。

「何笑ってるのよ!」
「だって姉さん、すげえ勘違い」
「勘違い!?言い逃れしようったってねえ」
「よく見てみろよ。その本、本当に姉さんの?」
「え…?」

 好はもう一度、その本をまじまじと見つめた。
 そう言われてみれば、自分の本より若干使い込まれているような気もする。

「その本は俺が借りたの。信じられないなら、部屋行ってクローゼットの下着入れを確かめてみたら?」

 にやにやとおかしそうに笑う弟の顔は確信に満ちていて、好は羞恥心から顔がさらに赤くなる。

「ま、紛らわしいことしてんじゃないわよ!だいたいなんで男がこんなもん読んでるのよ!」
「”こんなもん”とか言う割に、部屋に大事に隠しておいたりするんだぁ?へぇ〜」
「な、何よ!」
「部屋にあんなに立派な本棚があるのに、なんでそこに置かずに隠したりしたわけ?」
「れ、恋愛小説なんてくだらないもの、目のつくところに置いておいたら目障りだからよ!」
「そんな目障りなものなら、買わなきゃいいっしょ」
「そ、それは……」
「姉さんってさぁ、前から思ってたんだけど」
「何よ!」
「実は恋愛小説大好きでしょ?」
「な……!!!」
「あ、図星だ」
「ち、違うわよ!」
「クローゼットの下着入れの中には、他にもいっぱい恋愛小説が隠してあったりしてね」
「な、そんな……そんなことあるわけないでしょ!」
「目、泳いでるけど?」
「あ、あんた性格悪いわよ!!」

 稔はくすっと笑みをもらした。

「いやぁ、最近、すっごく素直というか素直すぎて嘘もごまかしも出来ない子とずっと一緒にいるから、姉さんの意地の張りっぷりが新鮮で、なんかウケる」

 好はやらしそうににやにや笑う弟を、真剣に殴り飛ばしたい衝動に駆られた。

 そして実行した。

 *

「いってぇな……ぐーで殴るなよな。可愛くない」
「結構よ。弟に可愛いと思われたら世も末だわ」
「確かに。姉さんを可愛いとか思い始めたら、俺の死期は近そうだ」

 ああ言ったらこう言う。
 六原姉弟の仲はあまりよろしくない。

「そんなことより、その本返してくんない?汚したらまずいから」

 好は稔に面倒くさそうに目をやると、無言で本を放り投げた。

「あっ、と。おい!乱暴にするなよ!大切な本なんだから!」

 空中でキャッチした本を大事そうになでながら汚れや傷がついていないか厳重にチェックしている稔の様子を、好は胡散臭そうに眺めた。

「誰に借りたのよ。男が喜んで読むような本じゃないでしょ。
借りる方も借りる方だけど、貸す方も貸す方だと思うけど」

「ん?彼女」

 傷や汚れがないことにほっと顔をゆるめた稔の様子に好は苛立ちをつのらせる。

「彼女とか突然三人称で言われても分からないわよ!あたしはあんたの交友関係なんか把握してないんだから。何?友達?」

 好の言葉に、稔は一瞬きょとんとした表情をみせ、すぐに可哀想な人を見る目で苦笑した。

「普通さ、日常会話で”彼女”って出てきたら”恋人”って意味でしょ」
「は?」
「だから、彼女、恋人、ガールフレンド、ラバー、ハニー、ダーリン」
「彼女いたの!?」
「最近ね」
「あんた、彼女は中学まででやめたんじゃなかったの!?『女の扱いはもう大体分かったからいい』とか言って!」
「うん。でも今の彼女は本気」
「どの口が言うか!」

 好はスリッパを脱いで稔の頭に一発殴りかかり、スパーンと気持ちのいい音がリビングに響いた。

「好きでもないくせにぽんぽんぽんぽん付き合って、どんなつきあい方してたのかなんて知りたくもないけど気づいてみたら別の子に変わってて、あたしの恋愛不信症にあんたも一役買ってるんだからね!いつか昔の女が腹でも刺しに来ないかと楽しみにしてんのに、どういう訳か綺麗な別れ方ばっかりしやがってちっとも来やしない!」

 肩を怒らせて怒鳴る好を、稔は冷静に観察するかのようにまじまじと見つめていた。

「何、珍しいもの発見した!みたいな顔で見てんのよ!」
「え、いやぁ、最近すっごく丁寧で礼儀正しいしゃべり方する子とずっと一緒にいるから、姉さんの粗雑な口調が新鮮、て言うかウケるなぁって」
「なんなのさっきから!素直だ丁寧だって……それ惚気?!彼女自慢?!!」
「うん」

 悪気なく無邪気に微笑む弟の姿に、好は絶句することしか出来なかった。

「あと、姉さん誤解してるかもしれないけど、俺、別に中学時代も女の子もてあそんだり誑かしたりしたつもりはないからね。”好きでもないくせに”って言うけど、向こうも俺のこと本気で好きだったわけじゃなくて、本命は別にいる子とか訳ありな子とか、そんな子ばっかり選んで付き合ってたから必然的に綺麗に別れられた訳で。一途そうな子とか俺に本気で惚れてるような子とは、どんなに懇願されても付き合ったりしてないから。可哀想だし、面倒くさいだろ」

「知るか!このろくでなし!」

 再び好のスリッパが稔の頭に直撃したことは言うまでもない。