13:2人の世界(2)



「いいの?あれ、お兄さんだろ?置いて来ちゃったけど」

 心配そうな稔とは対照的に、永遠子はしらっとした声で「大丈夫ですよ」と請け負った。
「いつものことですから。あの状態になった兄は自分たちしか見えていないので、少なくともあと30分は2人だけの世界から帰ってきません」
「はぁ」
「本当に、呆れるくらい仲が良いんですよ」
「仲、いいの?どちらかと言えば悪そうに見えたけど」
「いいですよ。先ほどの2人のやりとりを見ていても思いませんでしたか?2人とも初めはわたしのことを話しているのに、いつのまにか話題はお互いのことになっていて、終いにはああしてわたしを置いてきぼりにして取っ組み合いになってしまうんです。幼いころは必死で話について行こうとした時期もあったのですが、兄たちの話のペースはめまぐるしく変わっていくのでとてもついて行けず……最近では適当に聞き流してそっと席を外すようにしているんです」

 兄たちが聞いたら「それは誤解だ!」と言って泣いてすがりついてきそうなことを淡々と語る永遠子。
 兄たちの想いは妹にはこれっぽちも届いていないようである。

 永遠子はエレベーター前にさしかかり歩幅を少し落として体をそちらへ向けようとした。
 映画館は駅ビルの7階にあるので、エレベーターかエスカレータで上らなければならない。
 稔は永遠子の手を引いてエレベーター前を通り過ぎるとエスカレータの方へ連れて行った。
 映画館行きのエレベータはいつも満員でぎゅうぎゅう詰め状態になる。
 小柄な永遠子では押しつぶされかねない。
 というか、永遠子の横に男が立って彼女に触れられるのがなんとなく嫌だった。

 稔は一旦手を離すと先に永遠子をエスカレーターに乗せるとすぐ後ろの段に乗り込んだ。

「それにしても、似てないね……お兄さんたち身長いくつ?」
「たしか……180cmくらいだと思います」
「顔も格好いいしモテるんじゃない?」
「そうなんでしょうか……?あんまりそう言う話は聞きませんが。それに兄は顔も綺麗ですけど、体がとりわけ綺麗なんですよ」
「……体?」
「はい。肉体美と言うのでしょうか。兄は2人とも武道を嗜んでいまして、子どものころ見ていた戦隊物のヒーローにあこがれて柔道だったか合気道だったか空手だったか……もしかして全部かもしれないんですけど始めまして、今は段持ちなんです。お風呂上がりに裸で闊歩している姿は金剛力士像かギリシャ彫刻みたいで惚れ惚れします」

 実際は戦隊物のヒーローにあこがれていたのは永遠子の方で、永遠子が夢中になっているのを見て、兄たちは武道を始めたのだとは当の永遠子は知るよしもない。さらには、永遠子があこがれていたのは変身前のイケメン俳優であって、特別強い男が好きだというわけではないことも兄たちは当然想像すらしていない。

 2階につき、エスカレーターを降り永遠子が次の階へ進もうとした時だった。
 急に後ろから手を引かれた。
 驚いて振り返ってみると、ひどく真剣な顔をした稔がじっと永遠子を見つめており、訝しがる永遠子にかまわずそのままその階の脇まで連れて行かれてしまった。

「六原さん?どうしたんですか」
「永遠子ちゃん」

 稔は真剣な顔で永遠子の両肩をぐっとつかんだ。

「もしかして永遠子ちゃんはお兄さんたちみたいにマッチョな方が好きだったりする!?」
「マッチョ……ですか?」
「俺、見た目は華奢そうに見えるかもしれないけど、実はそれなりに鍛えてるんだよ!」
「そうなのですか?」
「そう!毎朝ジョギングしてるし、寝る前には腹筋とか腕立て伏せとか柔軟とか欠かさずしてるし!」
「それは……よい心がけですね」
「お、お兄さんたちには全然敵わないけど、俺だって着痩せしてるだけで脱いだら凄いから!なんなら見せてもいいし、触ってもいいよ!?」
「触って……」

 目を丸くしてわずかに目を泳がせた後わずかに赤みが差した永遠子の顔を見て、稔はようやく自分の失言に気づいた。
 稔は慌てて両手を離した。

「ああ!ち、違う!いやあの変な意味じゃなくて別にやましいこともやらしいことも考えてないから!」
「やらしいこと……」
「ああ〜なんでそこに食いつくの!?違うから本当!ただ……」

 稔は焦りと羞恥心にまみれた顔で髪をかきあげると、肩を落として小さく縮こまってつぶやいた。

「もし、永遠子ちゃんがもっと筋肉つけろって言うなら俺ジムに通ってもいいしボクシングのプロテストを受けたっていい」

 詰まるところが単に、稔は永遠子に肉体を賛美された兄に嫉妬しただけだったのだが、永遠子はなぜ稔がそんなに筋肉にこだわったのか全く理解できなかった。
 それゆえ、永遠子の発想は脳内であちこちと飛び回り挙げ句の果てにとんでもないところに着地した。

「わたしも、鍛えた方がいいですか?」

「は?!」

「六原さんがそんなに筋肉にこだわりを持っているとは知りませんでした。確かに兄の筋肉は身内のわたしから見ても惚れ惚れするので、六原さんが憧れるのも無理ありません。わたしは女ですので、兄のようになるのは無理かもしれないですけど、頑張れば少しくらいは近づけるかもしれな」
「うわーーー!やめて!しなくていいから!」
「そうですか?でも父にはよく『痩せすぎだ』と言われますし。鍛えたらちょっとは体重も」
「いやいやいや!確かに細いけど、別に病的に痩せてるわけでもなし、俺にはちょうどいいから!ジャストサイズだから!そのままの永遠子ちゃんが好きだから!」
「そうですか?」

 稔は首がはずれるほど何度も激しく縦に振った。

「だったら」

 永遠子は稔をじっと真っ直ぐな瞳で見上げた。

「わたしも今の六原さんが好きですよ。六原さんが鍛えたいのでしたら応援しますけど」
「本当?」
「はい」
「そっか」

 稔は安堵の息を漏らすとにっこり極上の微笑みを浮かべた。
 永遠子はそんな稔の表情に息をのんでうっとりと見とれた。

「行こうか」

 稔は永遠子の手をとってエスカレーターに向かって歩き出した。
 そして、先ほどと同じように永遠子を先に乗せ一段したの乗った稔は後ろから永遠子の腰に手を回して抱き込んだ。
 永遠子は驚いてびくっと体を震わせると前を向いたまま困った声を上げた。

「六原さん……」

 その情けない声に稔はくすりと声を漏らした。

「確かに、もう少しだけ太ってもいいかも」
「え?」

 振り返った永遠子に、稔はにやっと意地悪そうに微笑んだ。

「その方が抱き心地よさそう」

 永遠子は絶句したまま固まって、あやうく降り口で躓きそうになった。

 *

 ところかまわず2人の世界。
 そんな彼らの世界に乱入しようとしている者たちがいることを、彼らは忘れてはならなかった。