12.5: 佐倉家攻防戦



 息子達がもつれあって転がるように家を飛び出していくのとちょうど入れ違いに、彼女の夫が帰ってきた。
 彼は休日の朝はジョギングをする習慣がある。
 いつもは7時から8時まで近所の河原を往復しているのだが、今日は彼が溺愛している娘の永遠子が10時に家を出ると聞いて、鉢合わせすれば夫が娘のデートについて行きかねないと危惧した彼女は、なんやかんやと出発を遅れさせ、ついでに帰りに買い物をしてくるよう頼み帰宅時間を操作したのだった。


「おかえりなさい」

 彼女はにこやかに微笑むと夫の手にしたエコバックを受け取った。

「永遠子は?」

 息子たちとまったく同じ反応の夫に彼女は呆れ混じりの苦笑を漏らす。


「図書館にお勉強に。明日小テストがあるんですって」
「何!?」

 血相を変えそのまま方向転回して玄関に戻ろうとする夫の腕を、彼女はぎゅっと掴んだ。

「どこへ行くのですか?」
「一人では心配だ。様子を見に行く」
「永くんと久くんが追いかけたから大丈夫ですよ」
「なおさら心配だ!」

 腕を振り払って廊下へ出て行く夫の背中に、彼女は勢いよく抱きついた。


「違います!すみません!嘘をつきました!」

「嘘?」

 夫は足を止めて顔だけ振り返った。
 小柄な妻は目一杯見上げながら申し訳なさそうに眉を下げていた。


「本当は永遠子ちゃん、明日小テストなんてないんです。私がお願いして外出してもらったんです」

「なんでそんなこと!」

「だって!永遠子ちゃんが出て行けば永くんたちも出かけてくれると思って…」

「……どういうことだ?」

「最近、全然かまってくれないじゃないですか。2人でいても永遠子ちゃんの話ばっかりで。せっかくのお休みだから……久しぶりに夫婦水入らずですごしたいな……なんて」


 彼女は言葉を切ると、じっと上目遣いで夫を見つめた。
 彼は無表情でしばらく彼女を見下ろすと、盛大にため息をついた。


「な、なんですか!その態度は!!」
「バカ」
「ば、バカですよ!」
「ガキ」
「ガキですよ!」
「バカガキ」
「だから、知ってます!どうせ私はバカなガキですよ!そんなの20年以上前から知ってるでしょう!」
「ああ、知ってる」
「どうせ成長していませんよ!……結局、背だって胸だって成長しなかったし」

 むくれる妻に夫はくっくっと押し殺した笑いを漏らした。


「ちょっとは成長した」
「本当ですか!」
「ああ、甘え方が上手くなった」
「背と胸は?」
「してないな」
「ひどい!」
「事実だろう。胸に関しては、俺の努力が足りないというのなら今からでも努力するが?」
「い、いいです!」
「まあ、遠慮するな」

 夫はにやりと黒い笑みを浮かべると、軽々と彼女を抱き上げて階段を上り始めた。


「ちょ、どこへ行くんですか!」
「寝室」
「え、や、おろして下さい!なんで」
「こら!暴れるな。なんでもなにもお前が誘ったんだろ」
「誘ってません!」
「夫婦水入らずですごしたいんだろう」
「別に、リビングでまったりおしゃべりとかでも」
「却下。中学生か」
「だって、だってまだお昼ですよ!明るいですよ!」
「暗くなるのを待っていたら子どもたちが帰ってくるだろう」
「そうですけど」
「せっかくお前がわざわざこの俺に”嘘”をついてまで作った2人の時間なんだ。これからしばらく甘えなくても大丈夫なくらい、たっぷりじっくり甘やかしてやる」

 彼女は結婚生活20年の間に経験した、過去の彼による「甘やかし」の数々の記憶を思い出し、真っ赤になったあとに真っ青になった。
 彼はそんな妻の表情を面白そうに見下ろすと彼女を抱えたまま、器用に寝室のドアを開けた。


「俺に”嘘”をついたらどうなるか、知らないお前じゃないだろう。これからの頑張り次第で、”今”、お前がついている嘘を見逃してやってもいい」
「も、もう嘘なんてついてませんよ?」
「だからお前はバカなんだ。いったい何年付き合ってると思う。お前が嘘をついているかどうかなんて顔みりゃ一発で分かる」
「……嘘は、ついてないです!」
「隠し事はしてるだろ? 」

 さっと目をそらした妻。
 それを見て邪悪な笑みを浮かべる夫。


 彼は背中でドアを閉めるとそのまま部屋を直進し、ダブルベッドに妻をおろした。
 邪悪な表情と対照的に非常に静かで優しいおろし方だった。
 彼女は顔を赤らめわずかに潤んだ瞳で彼を見上げた。


「一緒にいたかったのは、本当ですよ?」

 夫は一瞬真顔になるとふっと声をもらした。

「昔も、今くらい素直に甘えられればよかったのにな」
「あの頃は……!自信がなかったんです。信頼と自信がなければ甘えられませんよ。嫌われるかもしれないと不安だったんですもの。甘えられるわけないじゃないですか」
「俺のせいにするのか?」
「そうです!”先輩”のせいです!」

 昔の呼び名で目をつり上げる妻に、彼は滅多に見せない心から笑みを見せた。

「じゃあ、今日のお前の”隠し事”を気づかなかったことにするのと、差し引きゼロだ」
「えー……」

 彼は不満そうに声を上げる妻の頬をぐいっと引っ張った。

「もう黙れ」

 そしてそのまま、妻の声を己の唇で塞いだ。

 *

 そして帰宅した三人の子どもたちが見たのは、エプロンをしてキッチンに立つ気味が悪いほど上機嫌の父親と、ぐったりとリビングのソファに体を横たえる母親の姿だった。